一九二六年秋、『大聖堂の秘密』という奇妙な書物が、パリで出版された。表紙の片隅には、「フルカネッリ」という著者名が記されている。前書きによると、これは錬金術師であるフルカネッリが、仲間の錬金術師たちのために書いた秘密伝授の書物だという。
この『大聖堂の秘密』のなかで、フルカネッリは、ゴシック建築が単なる寺院ではなく、一種の「石の書物」であり、その各ページには錬金術の秘密が隠されているという、驚異的な説をのべているのだ。
彼によると、ゴシック建築という言葉自体がさまざまな暗示を含んでいるという。たとえばゴシック・アートは、フランス語で「ART GOTHIQUE」とつづる。これからARTのTをとり、切る位置をかえると、「ARGOT HIQUE」となる。ARGOTというのは、フランス語でいわゆるスラング(隠語)のことだ。
さらに「ARGOTHIQUE」と続けて読めば、「アルゴーの言葉」という意味になる。フルカネッリによると、これはギリシア神話で、アルゴー船にのって黄金の羊を探しに出掛けた英雄イアソンと仲間たちが用いた言葉のことである。彼らの子孫が、その言葉を用いて、ゴシック建築に秘密のメッセージを託したというのだ。
たとえばパリのノートル・ダム寺院はその典型的なもので、大理石の彫刻は、それぞれ七つの天の金属(太陽は金、土星は鉛というように)をあらわしている。建物の寸法の比率や、ステンドグラスの配置などを丹念にたどっていけば、錬金術の奥義はかならずや習得できるというのだ。
たちまちフルカネッリの名は、フランス中に知れ渡った。一九六〇年代のオカルト・ブームの火付け役となった、ルイ・ポーエルとジャック・ベルジェのベストセラー『魔術師の朝』で、大きくとりあげられたのも原因した。
ジャック・ベルジェは一九三四年—一九四〇年にかけて、当時フランス最高の電子工学者として知られ、のちにナチに捕らえられて獄死することになる、アンドレ・ヘルブロンナーに師事していた。
ヘルブロンナーの弟子のなかに、一人の天才的な錬金術師がいたが、その男はフルカネッリというペンネームで、『賢者の住居』と『大聖堂の秘密』という奇書を発表したあと、世俗との関係をすべて断ち切って、突然どこかに姿を消してしまったという話だった。
一九三七年七月のある午後、ジャック・ベルジェは師ヘルブロンナーの使いで、パリのガス会社の実験室に出掛け、そこで一人の不思議な人物と出会った。ベルジェはその男の顔が、どこか普通ではないことに気づいた。男の顔はまるで大理石像のように無表情で、そして奇妙にも、見る角度によって老人のようにも若い娘のようにも見えるのだ。
最初に口を切ったのは、その男だった。
「あなたは、アンドレ・ヘルブロンナー博士の助手だそうですね」
ベルジェがうなずくと、
「あなたがたは核エネルギーを研究していられますね。蒼鉛線を高圧の重水素中で放電させて気化し,ポロニウムに対応する放射能をとりだすという方法で、成功を目前にしていられるようだ。しかしあなた方が進めていられる研究は、大きな危険をはらんでいます。それもあなた方にとってだけでなく、全人類にとっての危険なのです。
核エネルギーの開放は、あなた方が想像するよりずっと容易なことです。ただ、そうして作りだされた人工放射能は、数年後には地球を完全に汚染してしまいます。ごく数グラムの金属から作られる原子爆弾は、数個の都市を同時に破壊してしまうほどのエネルギーを持っているのです」
男はそういって、机上にあったフレデリック・ソディ(一九—二〇世紀の英国の化学者)の『ラジウムの解釈』という本を手にとると、アトランティス文明が原子放射能によって破壊されたことをほのめかす件《くだり》を、声に出して読み上げた。
「私は太古の昔、すでに原子エネルギーを駆使していた文明が、エネルギーを誤った目的に用いたため、滅びてしまったことを知っている。
そもそも近代物理学は一八世紀、一部の王侯貴族や自由思想家たちの遊びのなかから生まれたものです。だからそれは、きわめて危険な学問なのです」
若いベルジェは興味をそそられて、こう問い返した。
「あなたは錬金術のことを言っていられるのですね。あなたご自身は、その古代の知恵を用いて、黄金を作りだしたことがおありなのですか?」
男はベルジェを見つめて、にやりと笑った。
「どうやらあなたは、私が生涯をかけて追求してきた学問に興味がおありのようだ。しかしそれをほんの数分間で、誰にも分かる言葉で話すなど、とても不可能です。もし知りたいなら、あなた自身が時をかけて研究するほかはないでしょう」
そういうと男は、とつぜん夕闇《ゆうやみ》のなかにスーッと吸い込まれるように姿を消してしまった。たった今起こったことがすべて夢だったかのような思いにかられて、ベルジェはそのあとに呆然《ぼうぜん》と立ちつくした。
ベルジェの会ったこの男こそ、じつは現代の錬金術師として西洋史に不朽の名をのこす、フルカネッリそのひとだったのだ。
ベルジェ自身は、名前もいわず消えてしまったこの男のことを、いつかすっかり忘れてしまった。彼の人生にふたたびこの錬金術師の名前が登場してくるのは、それから八年後のことである。
第二次大戦がはじまり、ドイツ占領下にあるフランスで、ベルジェはナチス・ドイツへの抵抗運動に参加していた。そんなある日、原子物理学者として有名になっていた彼のもとに、ドイツが計画中の原爆開発計画をさぐる連合軍諜報部から、こんな依頼がとどいた。
錬金術師フルカネッリなる人物と接触して、�金属変成のある方法�を突き止めてくれというのだ。渡されたフルカネッリの肖像を見たベルジェは、びっくり仰天した。それこそ八年前にガス会社の研究室で会った、あの不思議な男だったのだ。
あのときのフルカネッリの警告は、すべて実現した。彼との出会いから八年後の一九四五年八月、広島と長崎に世界初の原子爆弾が投下され、膨大な犠牲者を出したのである。
フルカネッリとの再会は、ベルジェの人生観を大きく変えた。彼は原子物理学に疑問を抱くようになり、第二次大戦後は、錬金術の研究に熱心にとりくむようになった。現代では、この分野では世界に名をとどろかせる研究家である。
フルカネッリが一九二六年に出版した『大聖堂の秘密』は、彼の弟子を自称する、ユージェーヌ・カンセリエなる人物が編纂《へんさん》したものだ。カンセリエによると、彼自身も師フルカネッリから、�金属変成の粉�なるものを少し分けてもらい、自分もそれを用いて鉛を黄金に変成したことがあるのだそうだ。
カンセリエによると、フルカネッリは裕福なブルジョワの家に生まれ、最初のころはごく普通の家庭をいとなんでいた。しかしあるとき錬金術による神秘的変容を遂げてしまうと世間との一切のつながりを断ち切って、突然どこかに姿を消してしまったのだ。フルカネッリが姿を消してから三十年後に、カンセリエは一度だけ彼に再会したことがある。そのときフルカネッリは奇妙なことに、三十年前より逆に三十歳若返ってみえ、しかも女のような外観をしていたという。
師フルカネッリから連絡を受けたカンセリエは、指定された山のなかの古い城館に出向いた。そこでフルカネッリに丁重に迎えられ、一室をあたえられた。数日後の早朝、カンセリエは階段を降りて中庭に散歩に出ようとした。するとそのとき、中庭に一六世紀の服装をした女性が三人見えた。そのうちの一人が歩きながらこちらを振り向いたとき、彼はそれがフルカネッリであるのをみとめたという。
じつは錬金術の目的は、単に卑金属を黄金に変えることだけではない。その過程で、錬金術師の変容も、同時に達成されると信じられているのである。「溶解して化合せよ」という錬金術の標語には、二つの意味がある。一つはあまりにも有名な、錬金術の過程で卑金属が貴金属に生まれ変わることだが、もう一つは錬金術師自身も、死を通過してよりよい生へ再生することである。
古文献には、錬金術の最終過程には「愛の炎のなかで、王は女王と合体する」というプロセスが待ち受けていると書かれている。つまり錬金術に成功した瞬間、錬金術師は、男と女が合体した聖なる両性具有者に生まれかわるのだ。
その作用は、錬金術の過程で、不老長寿の妙薬を取り出すとき、副作用として起こるらしい。まず妙薬のおかげで髪や歯がぬけ爪もはがれて、新しいものが生えてくる。そして若いすべすべの肌がよみがえり、年も性別も分からない両性具有者が誕生するのだ。そしてそのときから、彼はいっさい食べ物を口にする必要がなくなるのだという。
錬金術師は、両性具有を人間の究極の理想の姿とみなしている。男も女も単体では不完全な存在であり、片割れである相手の異世界を理解することはできない。両性が合体することで、初めて真の魂の充足が訪れ、神の視点に立つことができるというのだ。
カンセリエは書いている。
「師は、彼の長きにわたる研究が成功したとき、ただちに姿を消してしまった。誰もこのおきてに背くことはできない。もし私の身にも師と同じ幸福な出来事が起こったとしたら、たとえ別れがどんなに辛かろうと、同じように姿を消してしまうだろう」
幸福な出来事とは、両性具有と不老不死への変身のことだったに違いない。