一九六〇年一月のある日、一人の男が、アメリカのオクラホマシティにある復員軍人病院に運びこまれた。五十三歳で、フィネス・P・アースネストという、ナイトクラブの経営者だった。
オクラホマシティの復員軍人病院は、アメリカ国内でも最高の設備を持つ病院の一つで、優秀な医療スタッフがそろっていた。最初のうちスタッフたちも、治療は順調に進んでいると確信していた。
最初はもうろうとした状態で運びこまれたアースネストも、医師らの努力でめきめきと回復し、二週間後には退院の許可が出た。資料によると、それまでアースネストは、六回も入退院を繰り返してきたという。しかし発作と痙攣《けいれん》の症状があるだけで、医師らは内臓に何の異常も発見できなかった。六回ともしばらく休養すると、やがて回復して母親の待つ家にもどっている。これは今回、復員軍人病院に来てからも同じだった。
ところがアースネストは家に帰ると、また数時間のうちにぜいぜい息を荒らげはじめ、二日もたたないうちに危篤状態になるまでに悪化して、またも病院に舞いもどってきたのである。なんとか救急処置で発作をとめたものの、すっかり衰弱していて、もう自分はおしまいだと意気消沈していた。
しかしまたも回復の兆しがみえ、退院の許可が出ると、母親の待つ家に舞いもどり、また再発して病院に舞いもどってくる。そんなことが繰り返され、医師たちも、すっかり匙《さじ》を投げていた。そしてそんな何度目かの入院の末、とうとう最期のときがやってきたのである。
運命の日八月二十三日。いつものように、アースネストは順調に回復しているように思えた。その日医師の診察を受けたあと、アースネストは夕方六時ごろ、母親に電話をした。
するとその直後、突然、彼は苦しそうにあえぎはじめ、午後六時三十五分、意識がもうろうとした状態で発見された。そして六時五十五分、ついに息を引き取ったのである。
思いもよらぬ患者の死に落胆したマチス医師は、徹底的に調査することを決意した。その結果、アーネストの父親が本人がまだ十代のころ亡くなっていて、彼が母親とともに、四人の弟や妹たちの面倒を見ていたことが分かった。
アースネストは三十になるまえに、二度ほど母親の反対を押し切って結婚したが、二度ともはやばやと離婚している。それから三十一歳のとき、アースネストは母親と共同でナイトクラブを始めたが、それが大成功をおさめたのである。
三十八歳のとき、彼はようやく母親が認めてくれる女性に出会った。相手のジョゼフィーヌは教師で、彼より二歳ほど年下だった。彼らは晴れて結婚し、それから十五年間はすべてが順調だった。
しかしそれも、彼がジョセフィーヌにそそのかされて、ナイトクラブを売りわたすのを決意するまでのことだった。それを聞いた母親は猛烈に怒りまくり、「そんなこと、絶対に許すもんか。そんなことをしたら、お前の身にきっと恐ろしいことが起こるよ!」と宣言した。
そして十五年間、健康そのものだったアースネストは、それから二日もたたぬうちに、原因不明の呼吸困難を起こしたのである。ある日、彼がクラブ売却の契約に出かけようとすると、母親は怒りでワナワナふるえながら、こう叫んだ。
「お前は死ぬ、きっと死ぬ!」
そして呼吸困難になって倒れたアースネストは、早々に復員軍人病院に運びこまれたというわけである。
マチス博士は、こう報告している。
「入院回数が異常に多い。喘息《ぜんそく》の発作は週に三—四回、痙攣が三回。どんな医療行為も無力だった。医療行為が役に立たなかったことは、自分の母親が絶対的に正しいという、アースネスト氏の確信がいや増していくことと、密接に関連している。
精神科医の診察によれば、彼は極度の鬱病《うつびよう》だったそうだ。それに喘息の発作が加わったが、これらはすべて、彼にとって脅威の存在だった、母親の脅迫から起こったものだ」
マチス博士はつぎに、アースネストと母親の、最後の電話について調査した。幸いジョゼフィーヌ夫人が、夫と義母の最後の電話の会話の要点を、話してくれたのである。そのときアースネストは、勇気を奮いおこして、「ナイトクラブを売って再投資し、母親抜きで妻と一緒に事業を始める」と、母親に話したのだという。
母親はそれに反対はしなかったが、会話の最後に効果的な言葉をのこした。「お前を恐ろしい最期が待っているから、覚悟せよ」と言い渡したのだ。それから数分もたたないうちに、アースネストは苦しみだし、一時間もしないうちに世を去ってしまったのだ……。
結局、マチス博士は事件に関する報告書に、つぎのような言葉を書き記した。「複雑に変形したブードゥーの死」……。