現在、アメリカ、ワシントンのスミソニアン博物館に展示されている、持ち主が必ず不運に見舞われるという、ホープのダイヤをご存じだろうか。
九世紀ごろ、インドの西北部ガット山脈のバルカット峠のふもとで、畑を耕していた農夫のクワに、何か固いものがあたった。掘ってみると、これまで見たこともないような,美しい青い透明な石があらわれたのだ。
さっそく宝石屋に鑑定してもらうと、なんと二七九カラットもある、世にも稀少なダイヤだということで、農夫は有頂天になった。農夫は一夜にして億万長者になったわけだが、しかしそれも長くはつづかなかった。
ペルシア軍が村に攻め入ってきて、あっというまにそのダイヤを奪いとってしまったのだ。それも、これだけは奪《と》られてならじと、必死ににぎりしめる農夫の手を、手首から無残に叩き切って……。
インド遠征から意気揚々と凱旋《がいせん》した隊長は、ダイヤをペルシア王のシャー・ゼハンに献上した。歓喜したシャー・ゼハン王は「我が王国と、このダイヤのどちらを選ぶかと聞かれれば、迷わずダイヤを選ぶ」と言ったほどだった。ところがその隊長は、なぜかその後まもなく謎《なぞ》の自殺をとげてしまう。
一七世紀になって、フランスの大旅行家タベルニエが、このダイヤを東洋から持ちかえった。彼はインドの古都ベーガンにある寺院の、仏像のひたいにはめこまれていた石を、ひそかに盗みだしたのだという。
ダイヤにすっかり惚《ほ》れこんだルイ一四世は、タベルニエに爵位と二五〇万フラン(数十億円)の大金を与えた。しかしタベルニエはその後全財産を失ってしまい、旅先のロシアの荒野で、狼に襲われて無残な死をとげることになる。
ルイ一四世の命でみごとなカットをほどこされたダイヤは、この世のものと思えぬほど、さらに怪しく輝くようになった。ルイ一四世はダイヤを、「フランスの青」と名づけ、家宝として愛でたという。
ところがこのときからブルボン王朝を、つぎつぎと不運が襲うようになった。まず、当のルイ一四世はまもなく病死し、ダイヤを彼から借りてヴェルサイユの宴に出席した、寵姫《ちようき》のモンテスパン侯妃は、夜会の途中で突然「首が苦しい!」と叫んで気を失ったのだ。
それまで王妃をしのぐ権勢を誇っていたモンテスパン侯妃は、いまわしい毒殺事件に関与し、国王からも愛想をつかされて、宮廷から追い払われてしまうのだ。
その後ダイヤはブルボン王家のルイ一六世のものになり、王はそれを妃のマリー・アントワネットに与えた。ところが王も王妃もその後フランス革命で処刑されてしまうし、王妃からダイヤを借りて身につけたことのある親友のランバル侯妃は、革命で暴徒に八つ裂きにされてしまった。
その後、ダイヤは革命のなかで姿を消していたが、一八〇〇年になってオランダの宝石研磨師ファルスの手にわたった。ところがファルスの息子がこのダイヤを父から盗みだし、売り飛ばしてしまう。
息子はその後気が狂って自殺してしまい、それを買いとった相手は喉に肉をつまらせて窒息死し、さらに一八三〇年にそれを譲り受けたイギリスの実業家エリアソンは、暴走する馬から振り落とされて死んでしまう。
つぎにこのダイヤを買いとったロンドンの大銀行家ヘンリー・ホープは、そのダイヤに自分の名にちなんで、ホープのダイヤと名づけた。しかしホープも、その後度重なる不幸に見舞われ、ついに破産してしまう。
ダイヤはその後、彼の息子フランシス・ホープと結婚した歌手のメイ・ヨーの手にわたったが、彼女もその後夫に見捨てられ、貧困のうちに世を去った。生前彼女は、「自分が幸福になれないのは、あのダイヤのせい」と、いつも言っていたという。
ダイヤをその後譲り受けたのは放蕩《ほうとう》者のロシア貴族だったが、愛人のコーラスガールを出演中に撃ち殺したのち、自分はロシア革命党員の一団に撃ち殺されてしまった。
つぎにダイヤはトルコの大王アブドゥル・ハミトの手にわたったが、当時トルコ帝国は滅亡寸前で、大王は「ダイヤに呪《のろ》われたアブドゥル」とあだなされていた。
結局、アブドゥルは退位に追い込まれ、ダイヤはディーラーの手を経て、名高いフランスの宝石商、ピエール・カルティエに買いとられた。しかしカルティエはそれを一九一一年に、アメリカの大新聞社「ワシントン・ポスト」紙の跡取り息子、エドワード・B・マクリーンに譲ってしまう。
マクリーンの妻エヴァリンは、ダイヤが気に入って、ネックレスにして肌身はなさず身につけていた。しかしダイヤはこの一族に来て、ますます呪いの勢いを増したようだ。
不幸は、マクリーン家の大切な跡取り息子、ヴィンソン少年を襲った。巨額の財産を相続する予定になっていたため、「一億ドル・ベイビー」とあだ名されていた,この十歳の少年は、召使たちがちょっと油断したすきに自宅のまえの通りに飛びだし、あっというまに車に轢《ひ》かれてしまったのだ。
その後、マクリーン夫妻のあいだも不和になり、前から大酒飲みだったマクリーンは、一連の出来事ですっかり神経をやられ、最後は精神病院で狂死してしまう。
しかしエヴァリンは、それでもダイヤを手ばなそうとしなかった。一九四六年には、エヴァリンの娘が睡眠薬の飲み過ぎで死に、新聞という新聞は、五年前の結婚式で彼女がホープのダイヤを身につけていたことを書きたてた。エヴァリン自身も翌年に風邪をこじらせて世を去ったが、最後まで呪いのことは否定しつづけていたという。
その後ホープのダイヤは、ニューヨークの名高い宝石商のハリー・ウィンストンが約百万ドルで買いとった。ところがウィンストン氏も、その後四度も車にひかれかけたうえ、事業に失敗して破産寸前になった。
意気消沈してしまった彼は、ついに一九五八年、ダイヤをスミソニアン博物館に寄付することにした。このときの彼の行動は奇妙だった。ダイヤをなんと普通小包郵便でスミソニアン博物館に送りつけたのである。
幸い、小包は無事に到着し、いまはホープのダイヤは、スミソニアン博物館でもっとも人気のある展示品となっている。ダイヤの横には、郵送されたときの包装材もいっしょに展示され、これを見て、「このダイヤは郵政省に、永遠に解けることのない呪いをかけたのだろう」などと、ジョークをとばす者もいるという。