特別仕様の高級車ベンツ……。それは、それを乗りまわす者に必ず恐ろしい死をもたらす呪われた車として、別名「死神ベンツ」とも呼ばれている。
一九一四年六月二十八日、どこまでも晴れわたった青空の下を、六人乗りの真っ赤なベンツが、すべるように車庫から出てきた。ベンツ540、当時のセルビア(旧ユーゴスラビア)のサラエボでは、並ぶもののない超豪華な高級車で、オーストリア皇太子の歓迎パレードをいろどる車として、早くから人々の注目を集めていた。
後ろのシートに皇太子夫妻を、前のシートにボスニア知事を乗せた車は、さんさんと照りつける太陽の下を、静かに走り出した。期待にたがわず、豪奢《ごうしや》な内装と、フカフカしたシートの乗り心地は抜群である。皇太子夫妻はすっかりご機嫌で、互いにお喋《しやべ》りをしたり、沿道に出迎える群衆に、愛想よく手を振ってみせたりしていた。
ところが、ベンツが国会議事堂にさしかかったとき、突然、群衆のなかから一人の青年が飛びだしてきて、皇太子夫妻の車のステップに足をかけ、たてつづけに夫妻めがけてピストルを撃ちまくったのだ。皇太子夫妻はその場にどうと倒れ、おびただしい血があふれて、座席を真紅に染めていった。夫妻はただちに王宮に運ばれたが、ほとんど即死状態だった。
犯人は,十九歳の無政府主義者青年、ガブリロ・プリンチプ。これが歴史上あまりに有名な、「サラエボ事件」である。オーストリア皇太子夫妻の暗殺が引き金で、第一次世界大戦が始まったのだ。世界中が恐ろしい戦渦に巻き込まれ、合計じつに八百五十万人余の死傷者を出すことになる。
かくて死神ベンツは、不吉なスタートを切ったのであった……。
つぎのベンツの持ち主は、オーストリア軍事団長ポチオクレ将軍だったが、彼は戦場で連敗に連敗をかさね、とうとう責任の重さに耐えられず、ベンツを購入してわずか二十日目に、とうとう狂い死にしてしまったのである。
今度は将軍の部下のスメリア大尉が、このベンツを買いとったが、彼も十日目に二人の男をひき殺したあげく、自分も木に衝突して即死した。修理されたベンツはユーゴの新知事の手にわたったが、知事は半年間につぎつぎ六回も交通事故を起こして、片手片足を失うはめになり、気味が悪くなって、さっさと車を手放してしまった。
車にまつわる不吉な噂を笑いとばして、強引に買い取ったのは、知事の友人のスリキス氏だった。けれど半年後、路上でその車が横転して、その下でスリキス氏の死体が見るも無残につぶれているのが見つかった。
今度車を買ったのは、スイス人のオート・レースの選手だった。彼はこの車をレース用に作りなおし、フランスで華々しく行なわれた自動車レースに出場したのだ。出だしは好調だったが、車は途中で突然コースからそれ、石壁を越えて絶壁から五メートル下にまっさかさまに落ちてしまった。選手は首の骨を折って即死だったが、不思議なことに車自体は何の損傷もないのが、不気味だった。
つぎに車を買ったのは、パリ郊外に住む農場主だった。二年間は何事もなく過ぎた。しかしある日、農場主が買い物に出掛けようとすると、エンジンがどうしてもかからない。仕方なく車からいったん降りて、エンジンを調べようと車の前に出たとたん、突然車が暴走しはじめ、彼をひき殺してしまったのだ。
農場主の家族は、恐ろしくなって、車を捨値で売ってしまった。買いとった自動車修理業者のハーシュフィールドは、なんとなく血の色のような真っ赤な車体の色が気になった。そこでボディをライト・ブルーに塗りかえてから、「これで死神もよりつかなくなったろう」と、五人の友人を乗せて、親戚の結婚式に出かけた。ところが式場に着く途中、ベンツは急に狂ったように暴走をはじめ、建物に正面衝突して、一行の四人までが即死してしまったのだ。
さすがにそのころになると、ベンツは「死に神ベンツ」として悪名をとどろかすようになり、誰も譲りうけようなどという物好きな者はいなくなった。結局、行き場がないので、ウィーンの博物館に引き取られたが、第二次世界大戦のとき爆撃にあい、あえなく最期をとげたという。