のちの暴君ネロが西暦三七年に生まれたとき、占星学者にみてもらうと、「のちに皇帝になるが、母を殺すだろう」という予言だった。母アグリッピナは感激して、「皇帝になってくれるなら、殺されたってかまわないわ!」と叫んだという。のちにこの予言は、実現されることになる。
未亡人になったアグリッピナは、三三歳のとき、実の叔父クラウディウス帝と再婚した。しかし野心的な彼女は、連れ子ネロを帝位につけるため、ネロを夫の連れ子であるオクタヴィアと結婚させたあげく、当の夫クラウディウスを暗殺してしまうのだ。
母のおかげで帝位についたネロは、しかし、しだいに自分を差しおいて女王然とふるまう母がうっとうしくなった。身の危険を感じたアグリッピナは、ネロを�女の武器�で誘惑して一時をしのぐが、結局は殺されてしまうのだ。
目の上のコブだった母を殺したネロは、無理におしつけられた妻オクタヴィアを追放して、愛人のポッパエアを妻にむかえようとした。こうしてオクタヴィアは、はるかティレニア海の孤島に流された。
しかしオクタヴィアの不運はそこで終わらなかった。彼女が生きていては、いつ自分の地位が危うくなるかも知れないと恐れたポッパエアが、彼女を亡きものにするよう、しきりにネロをくどいたのだ。
それに負けたネロは、ついにオクタヴィアに使者をさしむけて、自殺を命じた。しかしオクタヴィアはそれを拒否したので、縄で縛りあげられ、四肢の血管をすべて切られることになった。これは当時のローマで、よくおこなわれていた殺人法である。
だがオクタヴィアは、恐怖のため血管が締めつけられて、血が思うように出ないため、なかなか死にきれなかった。そこで結局、スチーム・バスの熱気にあてて窒息死させられてしまったのである。
六四年、ローマに起こった大火事は、六日のあいだ燃えつづけ、阿鼻叫喚《あびきようかん》の地獄絵図のなかで、ローマの大半を焦土と化した。市民たちのあいだに、放火を命じたのは、皇帝ネロ自身だという噂《うわさ》がひろまった。
民衆のあいだが今にも暴動の起こりかねない空気になったため、ネロはあわてて、噂をもみ消すため、別の放火犯をでっちあげることを考えた。
こうして人身御供《ひとみごくう》にあげられたのが、皇帝の厳しい禁止政策にもかかわらず、ふえつづけていたキリスト教徒たちである。火災を口実に、ネロはこのさいキリスト教徒を、徹底的に弾圧しようと考えたのだ。
こうして無数のキリスト教徒たちが、身に覚えのない放火の嫌疑をかけられて捕らえられた。彼らはなぶり物にされ、想像をこえる残酷さで殺されていったのだ。
ある者は獣の皮をかぶらされ、犬をけしかけられてかみ殺されたり、闘技場で野獣のエサがわりに与えられた。また、ある者は、全身にタールを塗られて柱に縛りつけられ、暗くなると灯火がわりに燃やされた。ネロは処刑見物のため、ヴァチカヌス帝室庭園を提供したり、わざわざ戦車競技までもよおして、景気をそえたという。
しかしこの行為も、ネロの衰えかけた人気を回復することはできなかった。六五年、元老院議員や近衛《このえ》将校などが結びついて、ネロを葬り去ろうとする陰謀が計画されたが、未然に発覚して、つぎつぎ関係者が逮捕されて自殺を命じられた。
逮捕され自殺を命じられた者のなかには、ネロのかつての家庭教師である、名高い哲学者セネカもいた。セネカは雄々しく覚悟を決めて、自宅で妻や友人たちに別れを告げ、自らナイフで自分の腕の血管を切った。
ところがそこまではいいが、七〇歳近い高齢のセネカは、思うように血が出てこない。そこで足首の血管まで切ったのだが、苦悶《くもん》が長引くばかりでなかなか死に切れない。そばにいた親友に毒薬を分けてもらったが、それさえ効かないほど手足は冷えきって、全身の感覚がマヒしていた。結局は熱湯の風呂《ふろ》に入れられ、さらにスチーム・バスの熱気で命を絶つことになった。
その後も犠牲者の列はえんえんとつづき、セネカの兄も弟も、かつてはネロの寵《ちよう》を受けていた家臣のペトロニウスも死を命じられた。ペトロニウスはせめてもと、趣味的な死に方をえらんだ。
血管を切ってから、気の向くままに切り口を閉じたり開いたりして、血の流れを調節しながら、そのあいだずっと友人たちとお喋《しやべ》りをつづけたのである。
そしてネロを悔しがらせるため、死ぬまえに自分の高価な家具や宝石をすべて叩《たた》きこわした。それから饗宴《きようえん》の席に横になり、しだいに眠気に襲われると、うとうとしたまま、ついに目を覚まさなかった。できるだけ自然死をとげたように、周囲のものに思わせたかったのである。
のちに、ガリアの総督ガイウス・ウィンデクスが反旗をひるがえし、ローマを追われたネロが、郊外の別荘であえなく自害をとげるとき、彼はこう一人ごちたという。
「私の死で、なんと惜しい芸術家が、この世から失われることか!」
そしてついに、ネロは一気に剣を我と我が喉《のど》に突き刺した。六八年六月九日の夜明け、享年三〇年と六か月であった。