二一八年にローマ皇帝として即位したヘリオガバルスは、同性愛者で女装愛好家でもあり、つねに女の衣装を着て、白鉛を顔に塗って女のように化粧していた。
ヘリオガバルスは、ひまがあると街の淫売宿《いんばいやど》に入りびたり、ヒゲをぬき、目にアイラインを引き、頬《ほお》に白粉《おしろい》を塗って、荒くれ男たちに身をまかせた。
それでも満足できなくなると、王宮内に淫売宿をもうけ、そこで娼婦《しようふ》のかっこうをして、男たちに身を売った。そして受けとった金を、取り巻き連中に得意そうに見せびらかすのだ。
さらにヘリオガバルスは、アレクサンドリアの名医を招いて、下腹部に女陰を掘る切開手術を受けた。当時、アレクサンドリアの医術は、この分野では世界一を誇っていたのだ。
ヘリオガバルスは町の淫売宿で、奴隷や労働者などと、片っぱしから男色の関係を結んだ。あげくの果ては彼らを宮廷に招《よ》んで召し抱え、領地を与えるようなことまでした。
彼の愛人ヒエロクレスはもと御者だったが、ヘリオガバルスはその美しい金髪が気に入り、宮廷でもちいるようになった。ヒエロクレスはたちまち皇帝をしのぐ権勢を誇るようになり、奴隷だった母親はローマに迎えられて、女知事の地位を与えられた。
ヘリオガバルスは、マゾヒストでもあった。自分の浮気現場を、わざと愛人に見つかるように演出した。そしてそのあとで、嫉妬《しつと》した愛人が、自分に殴る蹴《け》るの暴力をふるうように仕向けるのだ。
ヘリオガバルスはマゾヒストであると同時に、けたはずれのサディストでもあった。ときには象牙《ぞうげ》作りの龕灯《がんどう》がえしの天井から、無数の花々をふらせて、気に入らない相手を花の香気のなかに埋めて、窒息死させてしまうようなこともあった。
さらに大きな車輪に少年の手足をくくりつけ、それを水中で回転させて、美少年が水中を見え隠れするさまを見物した。円形劇場の高座から、罪人たちの処刑を見物したり、罪人の身体《からだ》から性器を切り落として、ペットのライオンやトラに投げ与えることもあった。
ヘリオガバルスは、生けにえの少年を選ぶときは、出来るだけ両親のそろった、身分の高い美貌《びぼう》の少年を選ぶようにした。少年の死が、少しでも多くの人間に悲しみをもたらすことを望んだからだ。
ときに彼は、生けにえの腹に手をつっこんで、内臓をつかみだしたり、生けにえの肉を生きたまま一片一片むしりとり、それをザクロの焼け串《ぐし》のうえであぶったりした。これは古代特有の占いのやり方でもあったのだ。
プルタルコスは書いている。
「子を持たない女は、祭壇のうえで焼くため、貧しい家の子供を買った。母親は眉《まゆ》一つ動かさず、泣き声もたてず、この光景を見ていなければならなかった。まんいち涙をこぼせば、子供を殺されたうえに、金ももらえなかったからだ」
ヘリオガバルスが、身体にアザがあるというだけの理由で、一六も年上の妻ユリア・コルネリアを国外に追放してしまったことは、人々の反感をかったが、それ以上に、彼が男子禁制だった処女神ウェスタの神殿に踏みこんで、女神の木像を盗みだそうとしたことは、大スキャンダルになった。
これだけでもショックを受けたローマ人たちは、さらに、ヘリオガバルスがウェスタの神殿から、今度は女神像ではなく、生きた人間、つまり処女尼僧アキリア・セヴェラを誘拐しようとしたと聞いて、愕然《がくぜん》とした。
ヘリオガバルスに言わせると、「聖なるウェスタの尼僧との『宗教的結婚』で、二人のあいだに神聖な子供が生まれる」ことを期待したからだそうだ。
ヘリオガバルスのあまりの不人気に、彼を帝位につけたことを悔やむようになった祖母ユリア・マエサは、彼の近い失脚をみこして、二枚目の切り札を用意した。もう一人の孫アレクサンデルである。彼は兄と違って柔和でおだやかで、いかにも人好きのする性格だった。
準備は着々とすすめられ、ヘリオガバルスがあいかわらず変質行為にうつつを抜かしているあいだに、アレクサンデルは副帝に任ぜられ、人々から慕われた。弟に嫉妬《しつと》したヘリオガバルスは、彼から副帝の地位を奪ったうえ、民心をためそうとして、彼が死んだという噂《うわさ》を流させた。
てっきり本当にアレクサンデルが殺されたと思いこんだ兵士たちは、激怒して暴動を起こし、アレクサンデル自身が姿を見せることで、やっと騒ぎがおさまった。
このとき軍隊が歓呼してアレクサンデルを新帝に選ぼうとしたので、ヘリオガバルスは騒ぎの首謀者を逮捕しようとした。しかし、かねてからこの暴君をのぞくチャンスをうかがっていた軍隊は、このときとばかり彼に飛びかかり、いあわせた母親もろとも惨殺してしまった。
熱狂した軍隊は、ヘリオガバルスの死体をあとかたもないほど切りさいなみ、町中引きずりまわしたうえ、最後に石を結びつけてティベル川へ投げこんだ。ときに二二二年三月一一日、四年間の在位ののち、まだやっと一八歳の若さであった……。