中国最古の王朝といわれる殷《いん》王朝の、最後の皇帝|辛《しん》は、別名、紂王《ちゆうおう》と呼ばれる。紂王とは、人間味のかけらもない鬼のような皇帝のことを言うのだそうだ。
そんな鬼のような皇帝が愛した、鬼のような女が妲妃である。紂王が有蘇《ゆうそ》氏の国を攻めたとき、有蘇氏から降伏のしるしに娘をおくられた。娘は妲妃といって絶世の美女で、紂王はたちまち夢中になってしまった。
王の命令で妲妃のために、庭に砂丘の離宮がつくられ、そばに大きな池が掘られて酒をそそがれ、周囲の木々には肉がつるされた。みだらな曲の流れるなかで、真っ裸の男女が酒の池をおよいだり、肉の木の下でたわむれたりするのを、紂王と妲妃は見物しながら、自分たちも淫《みだ》らな愛欲におぼれた。
紂王は人民にどんどん重税を課したので、人民は「妲妃が来てから、紂王は人が変わってしまった。妲妃は狐《きつね》の化身かも知れない」と噂《うわさ》した。これらの声を封じるため、紂王は罪もない人々を片っぱしから捕らえて、広場に立てた太い銅柱にのぼらせ、下から火をたいて、生きたまま焼きころした。
銅柱には油が塗ってあり、万一すべり落ちれば、下は火のなかだ。落ちないように必死にしがみつくと、下の火があがってきて、銅柱も焼けていく。銅柱につかまる腕や脚がじりじり焼けこげて、ムッとするような煙と臭《にお》いがあがると、囚人は火のなかに落ち、のたうちながら死んでいく。
その光景を見ながら、妲妃《だつき》は凄絶《せいぜつ》な笑みを浮かべて大喜びし、紂王《ちゆうおう》はそんな妲妃を抱きしめては、ともに笑い興じたという。
紂王に仕える三公のうち、九侯は娘をさしだせと言われて、従わなかったため、殺されて細切れにされ、塩漬けにされてしまった。つぎの鄂侯《がくこう》も、王に従わなかったため殺され、腕や脚を切られて乾し肉にされた。
これらの行状をみていたつぎの西伯は、故国に逃れて、そこでしだいに人民の人気を得ていった。こうして三公を廃した紂王は、悪家臣らにそそのかされ、ますます淫欲《いんよく》におぼれていった。
なかにはみかねて諫《いさ》める者もいたが、紂王は耳を貸そうともしない。それどころか九侯らのように塩漬けや乾し肉にされかねないので、賢臣たちはしだいに国外に逃れていった。
いっぽう周では、西伯が死んで、あとをついだ子の発(後の武王)が、殷《いん》に反旗をひるがえした。紂王は七〇万の大軍をひきいて武王を迎えうったが、将兵たちは、紂王への長年の恨みから、ろくに戦わずに降参したり脱走してしまった。
紂王はほうほうのていで宮殿のなかに逃げもどると、もはや逃れようもないと知って、宮殿に火をはなち、無数の宝物が燃えおちていくなかに、妲妃とともに身を投げて死んでしまった。
かくて三一代、六〇〇余年もつづいた殷王朝も、あえなく滅びてしまった。時に紀元前一一二二年のことである。