一六世紀のイギリス国王ヘンリー八世は、別名「青|髯《ひげ》侯爵」と呼ばれる。なにしろ王妃をつぎつぎと六人もとりかえたうえ、そのなかの二人までも、根も葉もない不貞を理由に、残酷にも首をはねて殺してしまったからだ。
ヘンリー八世の女性問題でも、とくに当時の話題をさらったのが、最初の妻キャサリンとの離婚問題だろう。有名人がくっついたの別れたのだのは、恰好《かつこう》の週刊誌のネタになるが、それが一国の王ともなれば、国の運命を大きく変えてしまうこともある。
そもそもキャサリンは兄の未亡人だったのを、ヘンリー八世が無理やり妻に迎えたのだ。彼女が当時日の出の勢いの、スペインの王女だったためである。ただし兄の妻との結婚は法律で禁じられていたので、ローマ法王にお願いして特別の許可をもらった。
しかしせっかく無理して結婚したのに、キャサリンの生んだ子供たちは、娘一人をのぞいてみな早死にしてしまったのだ。これも神にそむき、法王の特別許可を得てまで、無理に結婚した報いなのだろうか?
思い悩むヘンリー八世は、キャサリンと離婚して、別の王妃を迎えようと考えるようになった。そのころちょうど目の前にあらわれた、王妃の侍女アン・ブーリンの小悪魔的な美しさに、彼はぐいぐい引きつけられていったのだ。
しかし離婚といっても、現代のように簡単にはいかない。またローマ法王にお願いして、キャサリンとの結婚解消を認めてもらうしかないのだ。しかし困ったことに、法王クレメンス七世は、当時の最強国スペインのカルロス五世(キャサリンの甥《おい》)に頭が上がらない。
苛立《いらだ》ったヘンリー八世は、ローマ法王庁と縁をきって、イギリス独自の国教を設定しようと決意した。一五三四年、ついに議会で「国王至上法」が通って、イギリス教会はローマから独立し、いわゆる英国国教会が誕生するのだ。
ヘンリー八世のおどしに負けたカンタベリー大司教は、キャサリンとの結婚解消と、すでにヘンリーの子を宿していたアンとの再婚を認めてしまった。同時にヘンリー八世は、キャサリンを遠いアムトヒルの地に追いやり、彼女とのあいだに生まれた娘メアリを私生児におとしめてしまった。激怒した法王クレメンス七世は、ヘンリーとアンの結婚は無効で、二人のあいだの子は庶子だと声明して、ヘンリーを破門した。
しかしヘンリー八世の期待を大きく裏切って、一五三三年九月、アンが出産したのは残念ながら女の子だった。失望したヘンリー八世は、新妻を放ったらかして、外に女を囲って泊まり歩くようになった。
折しも前王妃キャサリンとその娘メアリの周囲には、アンに反感を抱く不平分子たちが集合した。叔母キャサリンに対するヘンリー八世の仕打ちに怒ったカルロス皇帝が、イギリスに兵をさしむけるのではという、不穏な噂《うわさ》も流れていた。
そんな一五三五年一二月、アン王妃は今度は男子を流産してしまった。ヘンリー八世は深く失望して、このさいアンを追い出して、当時関係を持っていた侍女のジェーン・シーモアと再再婚しようと考えた。ジェーンは美人でも名門出でもないが、九人兄弟という多産系なので、男子を生んでくれる可能性は高い。
かつてキャサリンと別れるため�結婚無効�という手を使ったヘンリー八世は、アンの場合もそれで臨むのが手っとり早いと考えた。かくて国王の命を受けた宰相クロムウェルの手で、着々とアンをワナにはめる計画が練られはじめる。
クロムウェルはアンの周囲の不平分子を集め、大金を握らせて彼女についてあることないことを述べたてさせた。アンの�不貞�の真相を調査する特別委員会が組まれ、アンの兄ジョージをはじめ、四人の青年貴族が彼女との不貞を疑われて続けざまに逮捕された。
五月二日、ついにアン自身も捕らえられ、ロンドン塔に送られた。起訴状には、アンが兄ジョージはじめ青年貴族たちを誘惑し、国王を殺害した後、彼らのうちの一人と結婚することを約束していたと述べられていた。
アンは塔内の広場で斬首刑《ざんしゆけい》に、兄ジョージや青年貴族たちは絞首刑に処せられることになった。自分が夫の�慈悲�で、絞首刑でも火あぶりでもなく、斬首になると聞いたとき、アンは皮肉に微笑してたずねたという。
「首切り人の腕はいいかしら?」
そして、自分の首に手をあて、
「でも、たいして苦労はしないわね。こんなに細い首ですもの……」
処刑当日の五月一九日朝、アンは陽光が照りつけるなか、ロンドン塔広場の処刑台をあがっていった。やつれてはいたが、涙も見せず、取り乱しもしなかった。目隠しをされてひざまずいたアンの上に、死刑執行人の重い刀がふりおろされると、その首は大きく跳ねあがって、籠のなかに落ちた。
アンの首はしばらくのあいだ、見せしめとして橋の下にさらされることになった。国王を�たぶらかした�女にふさわしい罰というわけだ。
突然の、しかも無実の不義密通でアンを処刑したヘンリー八世は、それから一〇日後に、ジェーン・シーモアと正式に結婚して、さらに世間を驚かせた。