一七六八年、ノルマンディー地方の寒村リニュリに生まれたシャルロット・コルデーは、幼いときからかしこくて、庭の木陰で物思いにふけったり、何時間も大好きな読書にふけっている、物静かな少女だった。
一三歳のとき母を失って修道院に入れられたが、フランス革命|勃発《ぼつぱつ》後は修道院が閉鎖されたため、カーンの親戚《しんせき》の家に引きとられた。
当時、革命の指導者はマラーで、パリでは過激な革命による暴力行為や略奪行為が、たえまなく起こっていた。マラーは残忍な男で、牢獄《ろうごく》の中庭に見物人席をつくり、男は右側、女は左側に分けて、貴族の絞首刑を一般人に見物させようと計画していたともいう。
そんな話を聞くにつけ、正義感に燃えるシャルロットは、許しておけないという気持ちになった。極悪非道な革命指導者マラーを殺さなければ、流血|沙汰《ざた》はますますひどくなるだろうと思うようになったのだ。
いったん決意したら、その後の行動はすばやかった。一七九三年七月九日、シャルロットは父に書き置きを残し、乗合馬車でパリに出発した。ホテルに宿をとり、その足で刃物店に行って、包丁を買いもとめた。
独裁者マラーを暗殺することは、晴れて政治の表舞台に立つことだったから、シャルロットは身づくろいに時間をかけた。かつら師を呼んで髪をととのえ、肌着と服をとりかえ、時間をかけて化粧した。
包丁を胸にしのばせて、七月一三日、いよいよシャルロットはコルドリエ街のマラーの邸《やしき》にむかう。家人たちは彼の病気を口実に彼女を追い返そうとしたが、騒ぎを聞きつけたマラー自身のはからいで、幸い彼の部屋に通されることができた。
折しもマラーは入浴中だったが、シャルロットはすきを狙《ねら》って、その裸の胸に、手にした包丁を力まかせに突き刺した。マラーはすさまじい叫びをあげてその場に倒れ、どくどくと流れる血で、浴槽はまたたくまに真紅に染まった。
シャルロットはその場で逮捕され、コンシェルジュリの牢獄に送られた。罪の重さからして、死刑の判決を受けることは確実だった。七月一七日、彼女が法廷に姿をあらわしたとき、傍聴席から驚きの声があがった。
血まみれの刃物を手にした暴漢のかわりに、白い帽子と服に身をつつんだ、天使のような一人の乙女が立っていたからだ。誰に暗殺を命じられたのかという問いに、彼女は、自分一人でやったことだときっぱり答え、「数十万人の人の命を救うため、あえて一人の人間を殺したのです」と宣言した。
シャルロットは、画家をよんで自分の肖像画を描かせてほしいと、裁判官に懇願した。それはいれられ、裁判官の尋問を受けながら、画家のモデルをつとめたのである。今もヴェルサイユ美術館に、ボンネットをかぶり、長い髪を肩に垂らしたシャルロットの肖像画が残っている。清楚《せいそ》な、なかなかの美人である。
どうして彼女は、自分の肖像画を描かせようなどという気になったのだろうか。自分がのちのちまで、その名を語り伝えられるということを、すでにこのとき予想していたのだろうか?
結局シャルロットは、満場一致で死刑を宣告された。豊かな髪を切り落とされ、後ろ手に縛られたシャルロットが刑場に引かれていくあいだ、彼女を一目見ようと集まった群衆で通りは埋まり、馬車は立ち往生するしまつだった。
刑場に着くまでのあいだ、その美しい顔は、一度も迫りくる死への恐怖にゆがむことはなかった。超然とした態度、やさしいまなざし、頬《ほお》にかすかな微笑さえ浮かべて、彼女は人々のののしりに耐えつづけた。
処刑場につくと、シャルロットは馬車から飛びおり、急ぎ足で階段をあがった。死刑執行人からショールをはぎとられると、あらわになった胸を隠そうとして、急いで自ら処刑台に身をふせた。
ギロチンの刃がすさまじい音を立てて落ちたとき、革命広場は一瞬、荘厳な静けさにつつまれた。
享年二五歳。この世の悪や汚れに染まることもなく、自分があこがれていた古代ギリシアやローマの英雄たちと同じ、殉教のなかに身を投じたシャルロットの姿は、この世のものとは思えぬ美しさだったという。