のちにフランス国王ルイ一五世の寵姫《ちようき》となる、デュ・バリー伯爵夫人ことジャンヌは、一七四三年、パリ郊外のヴォークルールに生まれた。母は尻軽《しりがる》な町の料理女で、父は誰か分からない私生児だった。
洋装店の売り子をしていたジャンヌは、二〇歳のとき、彼女の運命を変える男に出会った。札付きの極道者という評判の、デュ・バリー伯爵である。ジャンヌの美貌《びぼう》に目をつけた彼は、彼女に自分の邸《やしき》に一緒に住まないかと誘った。
その後、伯爵は自邸で舞踏会を開いては物欲しげな男たちを招待し、ジャンヌを誰彼なしに賃貸しした。ジャンヌは昼間は、ヒモである伯爵の指図で娼婦《しようふ》として働き、夜は彼自身とベッドをともにするのだった。
ジャンヌがルイ一五世に出会ったのは、このときの客の一人、リシュリュー公が引き合わせたのである。ルイ一五世はたちまち彼女に夢中になり、のちにリシュリューにこう打ち明けている。
「ジャンヌは、私が六〇の老人であることを忘れさせてくれる、新しいセックス・テクニックを心得た、フランス随一の女性だ」
しかし実際は、娼家《しようか》がよいの経験のない国王に、ジャンヌが特殊な性的サービスをほどこしたに過ぎないのだが。
ついにルイ一五世は、ジャンヌを正式の寵姫として、宮廷に迎え入れることに決めた。一七六九年四月二二日、寵姫披露の儀式を一目みようとする群衆で、ヴェルサイユ宮殿はぎっしり埋まった。四四八○個のダイヤを散らした宝冠をいただき、ずっしり重い純白のドレスに身をつつんだジャンヌは、輝くばかりの美しさだった。
こうしてかつての娼婦は、フランス宮廷で他に並ぶもののない地位を築くにいたったのである。
しかし、まもなくジャンヌにも、新たなライバルが登場した。オーストリアから到着した王太子妃マリー・アントワネットである。輝くばかりの美貌の、名門ハプスブルク家出身の姫君と、娼婦出身のジャンヌでは、ちょっと勝負にならない。
性風俗の取り締まり厳しい、オーストリアに育ったアントワネットは、国王寵姫であるジャンヌに対して反感を持った。当時は公式の席では、貴婦人は自分より身分の高い貴婦人に、自分から声をかけることは出来ないというしきたりがあった。それをいいことに、アントワネットは徹底的にジャンヌを無視するのである。
それからは式典のたびに、ジャンヌはなんとか王太子妃から声をかけていただこうとするが、アントワネットはそれに気づかないふりをしてそっぽを向くということが繰り返され、ついにジャンヌの怒りはルイ一五世に向かって爆発した。
困惑したルイ一五世は、王太子妃つきの女官長やオーストリア大使をよびつけて、アントワネットを説得してくれるよう頼みこんだ。それでもらちがあかないと、アントワネットの母である、オーストリアのマリア・テレジア女帝に急使を送った。
驚いたマリア・テレジアは娘に長い手紙を書き、大恩ある陛下のためにも、寵姫にひとこと挨拶《あいさつ》の言葉をかけるようにと説得したのである。
こうしてついに、ジャンヌに軍配のあがる日がきた。一七七一年の元旦《がんたん》の式でアントワネットは、他の貴婦人と並んで立っているジャンヌに向かって、「今日のヴェルサイユは大変な人出ですこと」と声をかけたのだ。高慢ちきな王太子妃も、ついに寵姫に屈伏したと、人々は噂《うわさ》した。
だが、ジャンヌの並びない権勢も、ついにかたむく日がやってきた。三年後の一七七四年四月、ルイ一五世は高熱におそわれて床についた。夜、病人に水を飲ませようと明かりを近づけた医師が、国王の顔に天然痘《てんねんとう》の赤い発疹《はつしん》をみつけた。
当時、天然痘は命とりの病気とされていた。ルイ一五世は一大決心をしてジャンヌを枕《まくら》もとに呼び、自分の命の長くないことを告げ、このうえは一日もはやく自分のもとを退去してほしいと、涙ながらに命令した。
つぎの日、ジャンヌは馬車で泣く泣くヴェルサイユを去っていき、六日後にルイ一五世は息をひきとった。王太子がルイ一六世として即位し、マリー・アントワネットは、いまや王妃として栄光の頂点にのぼった。
領地ルーヴシエンヌで平穏な日々を楽しんでいたのだが、一七八九年にあのフランス革命が沸き起こると、ジャンヌも他の王室関係者とともに逮捕される。すでに国王ルイ一六世も、王妃マリー・アントワネットも、革命派の手で処刑されていた。
ジャンヌを担当したのは、アントワネットを血まつりにあげた悪名高い裁判官、フーキエ・タンヴィルだった。彼はジャンヌを、「恥ずべき快楽のため人民の富と血を犠牲にした高等娼婦」と決めつけ、死刑を宣告する。
一七九三年一二月八日、ジャンヌは後ろ手に縛られ、粗末な囚人服を着せられ、あんなにもルイ一五世が愛した金髪を、ばっさり切り落とされた。処刑台に馬車がついたとき、恐怖で気を失っていたので、死刑執行人は彼女を両腕にかかえて階段をのぼらねばならなかった。
断頭台にのせられ首のまわりに首かせをはめられたとき、ふと意識をとりもどしたジャンヌは、まわりを見渡して自分が今どこにいるのかを知って、恐怖におののいた。
「お願い。もうちょっとだけ生かして下さい。お願い!」
身悶《みもだ》えし泣きわめき、首かせから逃れようと必死にあがくジャンヌのうえに、しかしギロチンの刃は非情に落ちた。
享年五〇歳。ジャンヌの死は、フランス史上一つの時代の終末を示した。彼女以後、フランス史に、国王寵姫という正式の地位は存在しなくなるからである。