一九世紀フランスの詩人ラスネールは、フロックコートのふところに匕首《あいくち》をしのばせ、シルクハットをひょいと斜めにかぶった、ダンディな犯罪紳士である。
大金持ちの子に生まれながら、悪の道をひた走り、強盗殺人の罪を重ねたのち、三六歳の若さでギロチンの露と消えた。彼がつぎつぎ人を殺したのは、金や欲のためというより、もっぱら社会への恨みを晴らすためだったという。
根っからの詩人ではあったが、波瀾《はらん》にみちた人生では、ゆっくり文学の勉強をするひまもなかった。だから文学史に残るような大詩人にはなれなかったが、そのかわり風変わりな悪党詩人として名をのこしたのだ。
ラスネール逮捕は新聞にデカデカと書きたてられ、世間に大騒ぎを巻き起こした。やがて発表された彼の回想録は飛ぶように売れ、彼のニヒルな美貌《びぼう》と薄幸な生いたちに、読者はすっかり夢中になってしまった。
彼が逮捕されたいきさつは、こうである。一八三四年一二月一四日、三四歳のラスネールは、サン・マルタン街のアパートに住むある前科者のもとに、手下のアヴリルとともに押し入った。
手下が前科者の首に手をまわしたすきに、ラスネールが後ろから錐《きり》で一突きし、手下が斧《おの》で息の根をとめる。さらに隣室で寝ていた病母まで、めった打ちにして殺してしまった。
そして盗んだ金を手に、二人で今でいうソープランドにしけこみ、そこで返り血を洗いおとしてから、観劇とシャレこんだというのだ。この人を食った、落ちつきぶり……。
半月後、今度はラスネールは贋《にせ》手形を発行して、マレ銀行の集金人を、偽名で借りていたアパートに呼びつけ、殺して集金袋を奪おうとした。しかしこのときは、相手に大騒ぎされて、目的は達せなかった。集金人は重傷をおいながら、集金袋をしっかり抱いてはなさず、結局二人はあたふたと部屋を逃げだしたのだ。
事件から二か月後、ラスネールはついに、逃亡先のディジョンで逮捕された。手形偽造犯の別件逮捕だったが、たまたま監獄にいた手下の一人が、パリ警視庁のカンレール刑事に、ラスネールの前科と人相をもらしてしまったのだ。
捜査をすすめると、すでに牢《ろう》に入っている手形偽造の人相にそっくりだとわかり、たちまちラスネールは手形偽造ならぬ殺人犯として、そちらの管轄にうつされてしまった。
それからが大変な騒ぎだった。新聞は事件をセンセーショナルに書きたて、たちまちラスネールは有名になった。監獄の彼のもとに、パリの貴族や文人やマスコミ関係者などが、押すな押すなで詰めかけたのだ。
まるで人気スターなみの彼の部屋で、警官は汗びっしょりで、つめかける客を整理した。しまいに、彼に面会するには前もって予約せねばならないことになり、一度に大勢を通せるように、監獄の壁が三方くり抜かれたとか……。
彼を食い入るように見つめる面会人たちに囲まれて、ラスネールは自分の作品や犯した犯罪のことを、静かに語った。ときどき唇から辛辣《しんらつ》な皮肉がこぼれ、客たちは今をときめく流行作家でも前にしているように、厳粛な顔で耳をかたむけるのだった。
いよいよラスネールの裁判が、一八三五年一一月一二日に始まった。ここでも彼が現れると、満員の傍聴人席がドッとわいて、裁判長は騒ぎをしずめるのにおおわらわだった。ラスネールは堂に入った落ちつきぶりで、手下たちの証言を片っぱしから引っくり返したり、ときどき人を食った茶々を入れたり、ときには皮肉に鼻先でせせら笑ったりした。
それ以上に驚かされたのは彼の陳述で、当然被告が少しでも罪が軽くなるように自己弁護するだろうと思っていた陪審員らの期待は、みごとに裏切られたのだ。
「手下どもは事件に、何の関係もありません。私一人ですべてを計画し実行したのです。私がこれまで殺した相手は、二人どころか、一〇人、いや一〇〇人にも達するでしょう」
人を食った挑戦に、陪審員席はシーンと静まりかえった。これではいくら弁護士ががんばってみても、彼の罪を軽くするなどとうてい不可能だ。
「裁判官どの。どうぞ、生きろという判決だけは下さないで欲しい」
ラスネールはこのセリフを最後に法廷を去ったが、判決はもちろん二人とも死刑だった。ラスネールは、本望だったことだろう。
死刑執行は、事件から一年あまりたった一八三六年一月九日だった。凍りつくような早朝、手下のアヴリルとともに、大八車で刑場に運ばれながら、ラスネールは生涯最後の冗談をとばした。
「墓穴の土は冷てえだろうな」
それに、手下のほうもこたえる。
「毛皮でも着せて、埋めてくれって頼んでみたら?」
暗い寒々とした死刑場で、まず相棒のアヴリルが首を切られ、つぎにラスネールの番になった。
彼は落ちつきはらって自分から首を差し出したが、奇妙にもギロチンの刃が途中でひっかかった。五度もやりなおして、六度目にやっと首が落とされたという。
享年三六歳の、豪快そのものの人生だった……。