古代ローマやギリシアでは、死刑執行吏は法律で保護されていなかった。ローマでは、執行吏は奴隷身分で、都市のなかには住むことができず、集会所や神殿に入ることもできなかった。
彼らは普通人とちがう服装をし、通りを歩くときは警鐘を鳴らして、今から通りますよと警告せねばならなかった。当局は市民たちに、�けがらわしい�執行吏に近よったり触れたりしないようにと警告した。執行吏が来るだけで市民の集会は汚れると言われたし、死刑執行吏を普通の墓地に埋葬することは出来なかった。
中世後期になっても、死刑執行吏は都市に住む権利を与えられず、よし住めたとしても、やっと城壁のすみに住むことをお目こぼしされるぐらいだった。執行吏だけでなく、その家族も普通とちがった服装をしなくてはならず、通りを歩くときは、うっかり他の市民に触れたりしないように気をつけて歩かねばならなかった。
執行吏は、自分の家畜を他人の家畜といっしょの所で放牧することは出来なかったし、教会では誰よりも後ろの列にすわらねばならなかった。聖餐式《せいさんしき》に参加することはできなかったし、店には他の客が来ていないときしか入ってはならなかった。
当然(?)、執行吏の息子は執行吏以外の職にはつけないし、娘も執行吏にしか嫁にいけない。執行吏の妻が出産するときも、産婆は手伝ってくれない。当時は産婆という職業自体、呪《のろ》われた職業だといって周囲からうさん臭がられていたというのに!
執行吏が死んでも、誰も埋葬を手つだってはくれない。そこで哀れな未亡人は、やたらめったら町をかけずりまわり、そのあたりの浮浪者に金をばらまいて、棺《ひつぎ》を運んでくれるよう拝みたおし、ようやく世間から忌み嫌われた亡夫を、無事埋葬することが出来るのだ。
世間からへだてられ、孤立させられた結果、執行吏関係の者はみな同族になり、同族同士でしか結婚できないということになる。そこで職業も世襲制になり、代々長男が相続するということになる。
こうしていつのまにか、執行吏の家系というものが生まれる。その点だけは、貴族の家系と同じだ。こうなれば、ヨーロッパ中の執行吏同士が、親戚《しんせき》同士になるのも時間の問題である。
当時、もっとも有名な執行吏といえば、七世代に渡って「ムッシュ・ド・パリ(死刑執行吏)」の職に就いていたサンソン家であろう。
とくに大革命時代のシャルル・アンリ・サンソンは、一七九三—九四年にかけての恐怖時代に、数えきれないほどの有名人をつぎつぎギロチン台におくり、「大サンソン」と呼ばれた。