昔は食べ物や飲み物に毒を混ぜたり、毒を染みこませた品物をプレゼントして、邪魔な相手を殺すことが多かった。そこで王侯貴族たちは食事をとるまえに、毒味役の者に料理や飲み物を味見させ、大丈夫とわかってから、初めて自分も食したものである。
毒殺がごく日常的なものになってしまうと、一方では解毒剤を開発したり、毒に打ち勝つ体質を作ろうとする研究が発達した。ここにご紹介するミトリダテス王も、解毒剤の研究に打ち込んだ一人である。
�解毒剤�は、英語ではミスリデイト(mithridate)という。この言葉は、小アジアの東方にある小国ポントス王国を統治した、ミトリダテス六世(紀元前八〇年代から約一七年間)の名前に由来する。
ミトリダテス王はなかなかの戦略家で、ローマとの戦いで八万人もの属州アジア人を虐殺し、ギリシアや小アジアを治めるほどの大国に成り上がった。一方でミトリダテス王は、毒物研究家としても知られていた。
戦争に行かないときは、バビロニアやスキチアの医師団を招き、王宮の庭に広大な毒草園を造営して、全生活を毒薬研究に捧げた。実験のモルモットには、もっぱら死刑囚を使用した。一方で、自分自身も少量ずつ毒を飲んでは、免疫体質に変えていった。
しかしあいつぐ戦争の日々に疲れ切った王は、ついに六五歳のときローマのポンペイウスに敗れ、国を追われる身となった。親戚のアルメニア王のもとに逃げこんだが、そこにも攻めこまれて、大切な寵姫の一団はポンペイウスの一隊に奪いとられてしまった。
生き甲斐をなくしたミトリダテス王は、ついに自殺を決意した。自分で作った毒を一気に飲んだが、日頃からの訓練で免疫体質になっていたので、なかなか効かない。そこで仕方なく、側近に命じて剣で喉をつかせて死んでいった。紀元前六三年のことである。
博物学者プリニウスによると、ミトリダテス王は、ポントス地方の鴨の血を解毒剤に混ぜていたという。鴨が有毒性の魚や虫を常食としているからだそうだ。史上初めての一種の血清療法ともいうべき方法で、学術的見地からも、無視できない発見ではないだろうか。