一六世紀のフランス王妃カトリーヌ・ド・メディチは、希代の毒薬愛好家として知られる。フィレンツェのメディチ家から、アンリ二世に嫁ぐとき、カトリーヌは占星術師や香水調合師や魔術師や錬金術師をおおぜい伴ってきた。
カトリーヌに毒薬を提供したのは、そのなかのルネ・ビアンコという香料商人で、彼はサン・ミシェル橋のうえに香料の店をかまえていた。
「今度も、イタリア女のしわざかな」
「間違いないさ。見てみろ。母后のあの得意気な顔を」
カトリーヌにとっての邪魔者が、あまりにも都合よくつぎつぎ死んでいくのを見て、フランス宮廷の人々はこう噂した。実のところ、新教と旧教の戦いに引き裂かれたフランスで、一人の女が自分を守りぬいていくには、毒薬ぐらいしか手段がなかったのであろう。
フィレンツェから最先端の流行を持ちこんだカトリーヌの影響で、フランス宮廷の人々も、ハイセンスなお洒落を楽しむようになった。このファッションを、何か毒殺に役立たせることは出来ないものか……。
そのときカトリーヌが思い出したのが、亡き夫アンリ二世と結婚した二十数年前、ともに訪れた南フランスのグラースの町だった。グラースは、皮革加工で有名な町である。
町をあげて歓迎式をもよおしてくれたとき、市長から、まだ革のもつ独特の匂いを消す方法がないと聞き、カトリーヌは自分が故郷から持ってきた香水を提供した。
そして故郷から連れてきた香料商人のコジモ・ルッジェーリとルネ・ビアンコに、彼らが考案した香料の製法を、グラースの人々に教えるよう命じたのだ。市長は大感激して、カトリーヌを救いの女神と讃えたものだ。
このときのことを思い出したカトリーヌは、さっそくコジモとルネを呼んで命じた。
「革手袋に香料を染み込ませる方法を思いついたのは、そなたたちでしたね。同じ方法で、今度は手袋に毒を染み込ませて欲しいの。それもあまりの芳しい香りに、相手が思わず鼻を近づけたり、握手しただけで毒が効き目をあらわすようにお願いしますよ」
やがてカトリーヌの手もとに、完成した新兵器、「毒の手袋」が届けられた。大喜びしたカトリーヌは、何組もつくらせて、衣装棚の奥にしまいこんだという。
この毒手袋の犠牲になったと考えられているのが、のちのアンリ四世の母でナヴァル王妃のジャンヌ・ダルブレである。彼女は息子とマルグリット・ド・ヴァロワ(カトリーヌの娘でマルゴの名で知られる淫蕩な王妃)の結婚式に参列するため、パリにやってきたが、到着後六週間で、ぽっくり死んでしまったのである。
母を毒殺されたことに懲りたのか、アンリ四世はその後、自分でセーヌ河に水をくみに行き、自分の部屋で卵を茹でて食べていたという、涙ぐましいエピソードがある。
実はカトリーヌは、秘蔵っ子の三男(のちのアンリ三世)に王位を継がせるために、邪魔になった次男のシャルルを毒殺したとも言われている。
シャルルは一五七四年に二四歳の若さで死んだが、毒殺を疑われた主な理由は、かなり前から顔に奇妙な斑点が出来たことと、彼が血のまじった寝汗をかくようになったことである。
それにしても、野心のためには実の子を殺すことも辞さない。これが本当なら、やはりカトリーヌは恐ろしい女だ……。