人体実験(結核菌)
「人為的に発生させた皮膚結核による重度肺結核の根治」を実験するため、ハイスマイヤー医師はユダヤ人捕虜を用いた生体実験を行なうことを決意した。その舞台となるのが、ハンブルクのノイエンガンメ強制収容所である。囚人舎四aの一角は、木の柵で仕切られ、窓ガラスは白く塗りつぶされた。ここで何が起こっているかを、他の囚人の目から隠さねばならない。
一九四四年二月、五〜一二歳のフランス、ロシア、ユダヤの子供たちが二〇人、収容所に運ばれてきた。ハイスマイヤー医師の実験用モルモットとして、選抜されたのである。
最初、子供たちは大切に扱われた。囚人舎には暖房が入り、四人のポーランド人看護婦が子供たちとともに寝起きして、一緒に遊んでやった。親が恋しいと泣く子は、抱いて慰めてやった。もっとも、親たちはもうこの世にいなかったのだが。実験には、健康な子供たちが必要だったのだ。
いよいよ二〇人の子供たちは、実験を受けるために囚人診療所に行かされることになった。つらい体験だった。怯え、疲れはて、空腹で、寒さにかじかみ、子供たちは朝六時に起きて、囚人居住区から囚人診療所まで一キロ半の道を歩かされた。
厳しい寒さのなか、暖房一つない実験室で、しばしば子供たちは裸のまま、一五分のあいだレントゲン透視画面のまえに立たねばならなかった。透視したままでレントゲン像が検討され、議論されるからだ。囚人居住区にもどると子供たちは熱を出しはじめ、扁桃腺を腫らしたり、激しく咳き込んだり、肺炎を起こした。
一九四四年六月はじめ、ハイスマイヤー医師は成人を対象に実験を開始した。人間に結核菌血清を用いたときの効果を知りたかったのだ。彼はまず、ノイエンガンメ強制収容所の成人の囚人何人かに、結核菌血清を注射した。
ガラス棒で培養バクテリヤから特定の量を取り出し、生理食塩水に溶かしこんだ溶液を,ハイスマイヤーは病棟Iのレントゲン室に運ばせた。そこでは囚人が、腰かけに座らされて待っている。ハイスマイヤーは、この囚人の気管から肺のなかにゴム管を挿入する。
囚人は激痛を覚えて、ひどく咳き込む。しばしば傷つけられた気管から出血し、囚人は叫び声をあげた。それから囚人はレントゲンの前に立たされ、カテーテル(ゴム管)の位置を修正し、レントゲン撮影を行ない、両肺のなかに結核菌の浮遊液を注入された。
ハイスマイヤーは肺だけでなく、皮下にも結核菌の浮遊液を注射した。また別の囚人には、皮膚を切開し、結核患者の喀痰を塗布した。何人の成人囚人がハイスマイヤーの手にかかったか不明だが、一〇〇人以上と推定されている。
はじめに両肺に結核病巣のある重症患者のグループ、つぎに片肺だけ結核に感染したグループ、そしてつぎに肺結核にかかっていないが、他の臓器に結核病巣のみられる者たちのグループを使って、実験された。最後にハイスマイヤーは、結核にかかっていない健康な囚人を数人、�対照健康被験体�として連れてこさせた。
実験の目的も、それに伴う危険も、囚人たちには教えられなかった。菌を注射された囚人たちが高熱をだし、結核病巣が肺のなかに広がる様子を四週間にわたって観察したのち、ハイスマイヤーは今度は彼らの死体を解剖にふすため、死体置き場に運ばせた。
この時点で、生きた結核菌の接種は結核を治すどころか悪化させるだけだと判明した。にも拘わらず、ハイスマイヤーは二〇人の子供に同じ結核菌血清をもちい、結核に対する免疫形成と、場合によっては既得の免疫性を確定する実験を行なおうと考えていた。かねてより計画中だった、教授資格請求論文を完成させるためだ。
こうして二〇人の子供たちは、皮膚に切開を受け、培養結核菌を植え込まれ、そしてみな二、三日後に発熱しはじめた。さらに新たな責め苦が待っていた。結核病原体に対する防御物質がリンパ腺に集積しているかどうか、ハイスマイヤーは確認したかったのだ。
一九時ごろ準備がととのうと、看護囚人が子供たちを病棟Iに連れていった。子供たちは上半身裸にされ、手術台にのせられた。脇の下の皮膚にヨードがぬられ、ノヴォカインの二パーセント溶液が一〇CC注射され、局部麻酔された。ハイスマイヤーは、脇の下の皮膚を五センチにわたって切開し、リンパ腺を摘出してから傷口に綿球をつめた。
二人の囚人医師が、摘出されたリンパ腺をホルマリン溶液の入ったビンのなかにいれ、子供の名前と番号をラベルに書き込んだ。こうしてリンパ腺を切除された子供たちは、全員寝たきりになり、感覚マヒにおちいった。空襲警報がなり、ハンブルクやベルゲドルフに爆弾が落とされても、ここでは子供たちが夜も昼もベッドに横たわっていた。
刻々とイギリス軍がハンブルクに近づき、ファシズムの終末が近づきつつあった。そして子供たちにとっても、運命のときがやってきた。一九四五年四月二〇日、囚人監督部長、親衛隊中尉トゥーマンがノイエンガンメ強制収容所医師のトルツェビンスキ博士のもとにやってきて、ベルリンから、子供たちをガスか毒薬で殺すようにという命令が来たと報告した。
四月二〇日二一時半、報告主任のドライマンは、二人の看護囚人に、子供たちを起こして服を着せるよう命じた。揺り起こされても寝ぼけ顔だった子供たちは、これから旅行するのだと聞かされると、喜んで目をさました。ひどく弱っている子は、服を着せてトラックに運んでやらねばならなかった。小さな子供たちは、おもちゃを持参した。
トラックがノイエンガンメの強制収容所本部に到着し、子供たちはトラックを下りて防空設備のある一室に通された。子供たちはあちこちのベンチに腰をおろし、外に出られたことを喜んでいた。自分たちをどんな運命が待っているのか、夢にも知らなかったのだ。
そのとき、そこにつかつかと親衛隊兵長フラームが来て、子供たちに服を脱ぐように命じた。子供たちが驚いた顔をしたので、その場にいた収容所医師のトルツェビンスキ博士は慌てて、「チフスの予防接種をするから、服を脱がねばならないのだ」と言い訳した。
彼はフラームをそっとドアの外に連れ出し、子供たちをいったいどうするのかと聞いた。フラームは青い顔で、「吊るし首にするんだ」と答えた。
子供たちの運命を哀れんだトルツェビンスキは、少なくとも最後の瞬間、子供たちを楽にしてやりたいと思った。彼はモルヒネの一パーセント溶液二〇CCに、さらに一〇〇グラムの蒸留水を加えて薄め、子供たちの年齢に応じた投与量をはかった。
彼は部屋のドアの外に二つの椅子を置いて、子供を一人ずつ呼んだ。子供を椅子のうえに横たわらせると、少しでも痛みの少ない臀部に注射した。やがて子供たちがぐったりし始めると、彼は子供たちを床に寝かせた。
親衛隊兵長フラームが、子供たちのなかの一人を抱えて、別の部屋に連れていった。その部屋にはもう、輪になったロープがフックにかけられている。フラームはロープの輪に眠っている少年の首をいれ、ロープが締まるように少年の体に全体重をかけてぶらさがった。こうして彼は機械的に、つぎつぎと子供を吊るしていった。
すべてが終わったという報告を受けて、トルツェビンスキ博士が部屋に入ってくると、子供たちは全員、首に吊るし首のあとをつけて横たわっていた。彼は完全に死んでいるかどうか、一人ずつ調べていった。かくて、この余りにも悲劇的な一日は、閉じられたのである……。