一九七八年一一月一五日、場所はイギリス北西部の都市マンチェスターの郊外を流れる小さな川の土手。メアリ・ジョーンズ(三四歳)は、大型トランクのなかに、丸くなって横たわっていた。両手は縄で縛られ、スカートは太股もあらわにまくれている。トランクの四隅、自分の体の周囲に重い石が何個もつめこまれるのを見て、彼女は自分にどんな運命が待ち受けているかを悟った。
もう、何をするにも遅すぎた。身動き一つできず、悲鳴さえあげられない。ハンカチを口のなかに詰めこまれているので、何か言おうとしても悲鳴とも呻き声ともつかぬ声が漏れるだけだ。
悪い冗談だわ。そうに決まっている。ついさっき熱いセックスを交わしたばかりじゃない。そのすぐ後で相手を猫か何かみたいに水のなかに放り込むなんて、出来るはずがない。ここ何年というものなかったほどの、素晴らしい快楽をともに味わったというのに。
しかし彼女のほうに身をかがめている男の目には、哀れみの色など微塵もない。メアリの心に、言いようのない恐怖の波が押しよせてきた。わたしはもうじき死ぬのだ……。
そのときトランクのふたが閉じられ、光がぷっつりかき消された。つぎにトランクは持ち上げられて、砂利道を引きずられはじめた。トランクのなかのメアリにも、振動でそれと分かった。
そして男は突然立ちどまると、えいやっとばかりトランクを持ちあげ、川のなかに投げ落としたのである。つめこんだ石の重みで、トランクは川底まで真っさかさまに転がり落ちていき、水しぶきがあがり、枝編み細工のトランクの編み目という編み目から、川の水がなだれこんできた。
水は泥まじりのうえ、氷のように冷たい。さして深くはないが、ぴったりふたをしたトランクのなかに閉じ込められたメアリは、立ちあがることも外に這いでることも出来ない。
恐怖と絶望で胸を押しつぶされながらも、メアリは必死に息をとめていた。しかしそれも、トランクが水底を流されはじめたときには、もう耐えられなくなった。悲鳴をあげつづけていた肺がついに音をあげ、泥水が口といわず鼻といわず押しよせてきた。苦痛、恐怖、窒息、そして……、ついに死がおとずれたのである。
その晩、マンチェスター郊外、リバプールのある住宅では、ヘンリー・ジョーンズが、電話で妻メアリの消息を親戚知人に尋ねまわっていた。しかし誰も心あたりがないというので、翌朝、ヘンリーはリバプール警察に妻の行方不明を届け出た。
刑事に事情を聞かれて、ヘンリーは夫婦間には何の問題もなく、妻がなぜ失踪したのか見当もつかないと答えた。が、少しためらってから、妙なことを言い出した。立ちより先を問い合わせようと、妻のアドレス帳をめくっていると、トニイ・ソーンダーズという名前が目についた。知り合いにそんな人はいないし、妻がそんな名前を口にするのも聞いたことがない。
刑事がアドレス帳を調べると、確かに「S」の欄にその名前が見つかった。が、住所も電話番号も書いてない。ヘンリーの家を辞去してから、刑事は近所で聞き込みを始めた。夫が会社に出掛けているあいだに、メアリに男の訪問客があったかどうか調べるのである。
ある家で何げなくソーンダーズの名をもらすと、そこの主婦が聞き覚えがありますと答えたのには驚いた。あごヒゲを生やし眼鏡をかけた若い男が先週訪ねてきた。が、何かのセールスだと思ったので、結構ですと言ってドアをばたんと閉めてしまったという。
方々をまわったあげく、結局ソーンダーズなる人物は、他にも二軒の家を訪問していることが判明した。一軒は門前払いをくわしたが、もう一軒はトイレを借りたいと言ったので、上に上げてトイレに通したというのだ。
刑事は署に引きあげると、メアリ失踪事件に関する報告書に、こう書き記した。
「ジョーンズ夫人は、若い男と駆け落ちしたと信ずべき理由あり。駆け落ちの相手は、トニイ・ソーンダーズなる戸別訪問のセールスマンとみられる」
五日後の一一月二〇日朝、土木課所属の現場作業員が、砂州に打ちあげられた枝編み細工のトランクを発見した。中をあけてみて卒倒しそうになったが、ただちに警察に通報した。
マンチェスター署から一分隊が急派され、トランクが川から引き上げられて死体保管所に運びこまれた。それがメアリの変わり果てた姿であることは、すぐに確認された。運転免許などの入ったハンドバッグが、わざとらしくトランクに突っ込んであったのだ。さらにトランクには、石がいくつも重しがわりに詰め込まれていた。
解剖の結果、死後、約五日たっていると推定された。川の水が冷たいので、遺体はかなり良好な状態だった。直接の死因は溺死だが、水中に投げこまれたときはまだ意識があったようだ。
その証拠に、息をぎりぎりまでこらえようとしたため、毛細血管が多数切れていた。遺体には暴力を加えた形跡はなく、両腕を縛る縄が深々と食い込んでいたが、これは身をふりほどこうと必死にもがいたせいらしい。膝、腰、尻などに小さなすり傷がいくつかあったが、溺死する瞬間、トランクのなかで死にもの狂いに暴れたのだろうと推察された。
性器を調べた結果、彼女が死の直前、血液型O型の男性と肉体関係をもった事実が判明した。肉体の最深部で射精が行なわれ、ヴァギナに体液が多量に分泌されている点から、かなり気を入れていたようだ。
両腕を縛った縄も、あまり相手に苦痛を与えないようなやり方をしていることも注目され、犯人はセックスプレイの一部だと言い聞かせ、相手の了解を得て縛ったのだと推量された。そして肉体関係を持ち、終わると身動きできない相手をあっさり川に放り込んだのだ。不要になったものを袋につめて河のなかに放り込むように……。
リバプール警察は、謎の男トニイ・ソーンダーズを追って捜査を開始した。同時に、ジョーンズ家の近所でしらみつぶしの聞き込みが始まった。ソーンダーズの人相については、どの証言も一致していた。がっしりした背の高い男で、あごヒゲを生やし、角ぶちの黒眼鏡をかけている。やや派手めのチェックのスーツを着ており、ハスキーな声でなかなか話上手だ。
さらにメアリが友人たちにした打ち明け話のなかから、ジョーンズ夫妻の夫婦間のもつれが浮かび上がってきた。三年前の七五年夏ごろ、急にメアリが化粧品や洋服に金を惜しまないようになった。友人たちには、夫が浮気しているので、相手から夫をとりもどしたいのだと打ち明けている。夫は離婚を求めたようだが、メアリはとりあわなかった。
毎度おなじみの三角関係である。結婚一〇年になる三〇代半ばの男が、若い女性と不倫の関係になり、妻に離婚を要求したが、妻は相手にしてくれない……。そんな状況に追い込まれて、人殺しに走る夫も、ままある。特に彼が社会的地位が高く、スキャンダルを避けたい場合は……。
ヘンリーの不倫の相手はすぐに判明した。なんと彼がつとめる貿易会社のオーナーの一人娘である。都合よくいけば、いささか鼻についてきた古女房にかわり、二二歳のぴちぴちした女性を手に入れ、さらに会社のオーナーになることも出来る……。
しかし彼は離婚を要求して、はねつけられた。ここまでくれば、妻を亡き者にしてまたとない幸運をつかもうと決意するのも、あと一歩だ。そして彼は、その一歩を越えた。身元はさっぱりつかめないが、ソーンダーズなる人物をやとい、メアリを殺害させたのだ。
メアリのアドレス帳に何度も目をとおすうち、刑事は妙なことに気付いた。トニイ・ソーンダーズと書かれた字体が、どうも他の字体と違っているのだ。筆跡鑑定家に鑑定してもらうと、確かにそれらが同一人物のものではないという結果が出た。
さらに今度はヘンリーの筆跡との比較をたのんだところ、アドレス帳にソーンダーズの名を書き入れたのは、ヘンリーその人であるという結果が出た。やはりメアリを殺したのはヘンリーなのだ! が、直接の下手人であるトニイ・ソーンダーズとヘンリーの接点が見出せないかぎり、彼を追いつめるのは困難だ……。
ところが数日後、事件を新聞で見た、六八歳の老人から警察に通報があった。一一月一五日午後、犯行現場付近を通ったところ、川岸に配送用の小型トラックが停められているのを見たというのだ。そして老人が記憶していた、トラックの横腹に記された社名こそ、ほかでもないヘンリーの勤め先の社名だったのだ!
ヘンリーが勾留され、鑑識班の一行がジョーンズ家に走った。これという発見はなかったが、ヘンリーのものらしい芝居装束がいくつか見つかった。聞き込みの結果、彼が素人芝居が好きで、子供のころからさまざまな舞台に出演していたことが判明した。しかも日ごろから、つけヒゲやカツラをつけて、変身することが好きだったらしい。
そんな彼が、あかの他人に化けて目的をとげ、追跡の目をくらましてやろうと考えたのも自然の成り行きである。犯行のひと月ほど前には、眼鏡、カツラ、つけヒゲ、変装用の衣装を買いそろえた。
一式を身につけて他人になりすまし、セールスマンを装って、まず手始めに自宅に赴いて呼び鈴をならした。メアリが夫である自分を見破れなければ、他人が見破れるはずがない。そして確かにメアリは、見抜けなかったのだ!
つけヒゲをとって素顔をあらわすと、彼女は心底、驚いた。彼女は別人のように変わった夫に興奮し、ヘンリー自身も新鮮な刺激をおぼえ、二人はいつになく激しく求めあった。それからひと月というもの、情熱的な夫婦関係がつづいた。一方で、彼は着々と計画をすすめた。トニイ・ソーンダーズになりすまして近所の家を訪問し、たくみに既成事実を作りあげたのである。
犯行の日、会社の小型トラックを運転して仕事場を抜け出すと、いつもの扮装をして自宅にもどった。メアリは�恋人�トニイの突然の帰宅に、大喜びだった。
「どうだ、野外でセックスしてみないか。おたがいエキサイトするぜ」
そういうと、メアリは二つ返事だった。さっそくヘンリーは後部座席にトランクを積み込むと、川岸に走らせた。
両手を縛られても、メアリは不思議がらなかった。それまでも緊縛その他の変態プレイを、夫婦で実行していたからだ。それどころか、野外で縛られて猿ぐつわをはめられ、他人に扮した夫に犯されることにすっかり興奮したとみえ、何度も絶頂に達した。そしてこれが、この世での最後の享楽となった……。