一九七八年九月七日夕方、ロンドンのBBCワールドサービス・ビルでの仕事を終えたゲオルギ・マルコフは、ワーテルロー橋でバスを待っていた。彼が突然、太股の裏に激しい痛みを感じて振りむくと、一人の男がたったいま落としたらしい、こうもり傘をひろいあげていた。男は失礼とつぶやくと、そのままタクシーに飛び乗ってしまった。
マルコフは帰宅し、何事もなかったように妻と食事をとったが、ベッドに入ってまもなく、急にからだの調子が悪くなった。午前二時には四〇度という高熱になり、救急車で病院に運ばれ、四日後にはあっけなく病院で息をひきとった。
原因不明の死に当惑した医者たちは、彼の遺体を拡大鏡を使って徹底的に調べ、大腿上部の裏側に、直径わずか一・五二ミリの小さな金属製の玉を見つけた。ジェット機のエンジンに使うプラチナとイリジウムの合金で出来ており、〇・三五ミリの極小の穴が二つ、なかで連結するように巧みに彫り抜かれていた。そしてそれらの穴にはなんと、ヒマからひまし油を抽出するときに出てくる、コブラの毒の二倍もの毒性のあるリシンがつまっていたのである……。
報せを受けた刑事たちは、マルコフの妻の証言で、死の四日前にマルコフが見かけたという、例のこうもり傘の男を探した。その男が乗り込んだというタクシーの運転手を探したり、バス待ちの列の人から目撃者を探したりしたが、無駄だった。
マルコフはブルガリア生まれの劇作家だが、風刺的な戯曲を書いて当局に睨まれ、一九六九年六月に西側に亡命した。その後は放送キャスターとなり、イギリスや西ドイツのラジオ放送で、共産主義を歯に衣着せず、ずけずけと批判した。
東側の国のなかでももっともスターリン主義の強いブルガリアは、しだいに彼への憎しみをつのらせた。こうして一九七八年八月、ついに一人の殺し屋が二つの使命をおびて西ヨーロッパにやってきた。
その使命はまず、パリで地下鉄に乗っていたブルガリア人のラジオ・TVレポーターのウラジミール・コストフの背中に、例の玉を打ちこむことだった。しかしコストフは命拾いした。チェコスロバキアで製造された玉に、致死量に充分な毒が入っていなかったため、死の一歩手前で助かったのである。
しかし殺し屋は、二週間後のワーテルロー橋では失敗しなかった。例のこうもり傘は、柄のところが皮下注射用ピストンになっていたと推察される。針のとりつけ台はピストン内にプレスで填めてあり、ふつうはピストンのなかに引っ込んで飾り金具に隠れている。
傘の握りをもって先端を相手に突き刺すと、針をとりつけた部分が、空気圧で前進する。このとき針が相手の体に侵入し、ピストンに圧力をかけつづけると、毒が注入されるというわけだ。
それにしても臨終の床で、マルコフが苦痛にあえぎながら、「毒をもられた。殺される……!」と洩らさなかったら、西側はソヴィエト側の巧妙な殺人手法の一つを、まだ知ることはなかっただろう。