スティーヴン・ハーパー(二六歳)は、有能な生物学者である。彼のコンプレックスは、ハゲだった。周囲の女性たちは聞こえよがしに、「ハゲの男なんて最低ね」などと言ったり、ときには彼を指さして嘲笑った。ハーパーのハゲは遺伝で、父親も三〇歳のころにはすっかりつるつるだった。彼自身にも、ついにそのときがきたのである。
毛が減っていくにつれ、彼のまわりにいたガールフレンドの数も減っていった。最後に残ったのが、サンドラ・シェルトンである。三カ月ほどの交際のすえ、もう彼女しかいないという悲痛な覚悟で、ハーパーはサンドラにプロポーズした。しかし返ってきた答えは、悲惨なものだった。
「悪いけどわたし、わざわざ髪の毛のない人と結婚しようとは思わないわ」
「カツラをかぶるよ。そうすれば、ハゲだなんて、誰にも分からないだろ?」
彼はサンドラを、引き止めようと必死だった。
「そういう問題じゃないの。ハゲが遺伝するっていうのは、あなたのほうがよく知ってるでしょ? あなたのこと嫌いってわけじゃないけど、結婚を考えたことはないわ」
顔色も変えず、しゃあしゃあと答えるサンドラは、冷酷そのものだった。それでもあきらめきれないハーパーは、その後もしばらくは未練がましく食い下がった。なんとか考えを変えてもらおうと、サンドラを一流レストランに連れていったり、ティファニーの高価なネックレスを贈ったりした。
無理に無理を重ねたため、借金は相当な額にのぼっていた。そんなある日、ハーパーはサンドラのアパートに招かれた。何か大切な話がありそうだと感じた彼は、一張羅の背広を着て、花束と指輪のプレゼントを用意して、彼女のアパートのまえに立った。
ところがさんざん気をもたせたあげく、そろそろ帰るころになって、サンドラは初めてハーパーに、彼を招いた目的を知らせたのだ。
「実はわたし、結婚することになったの。あなたとのことは、良い思い出にしたいのよ」
ハーパーは、そのあと自分が何を喋ったかももう覚えていない。彼は放心状態でサンドラのアパートを出て、近くのバーにふらふらと入っていった。あおるように水割りを飲んだハーパーは、そばの客にまくしたてた。
「あの女、さんざんおれをじらせたあげく、おれを捨ててほかの男と結婚するんだと。そんなこと、させるもんか。おれを捨てて、あいつだけが幸福になれると思ったら大間違いだ」
サンドラはデュアン・ジョンソンという男性と結婚し、幸せな新居をかまえた。しかし三カ月後のある朝、一人の男が彼らの新居の前に立っていた。あのハーパーが木陰に隠れ、じっとライフル銃で狙いをさだめていたのである。
サンドラが新聞をとりに出てきたとたん、つづけて三発の銃が発射された。一発は彼女のすぐ脇のドアに命中し、我を忘れて家のなかに駆けこんだサンドラは、即刻、警察に通報した。
狙撃者の姿を目撃していたサンドラは、スティーヴン・ハーパーの名を捜査担当官に明かした。警官たちはハーパーの家に急行し、彼を殺人未遂で逮捕した。ハーパーのほうは、こんなに早く足がつくとは思っていなかったらしく、銃を隠してさえいなかった。
「殺そうなどという気はありませんでした。ただ、驚かそうとしただけなんです」
彼は、陪審員に向かって主張した。
「脅かせば、彼女がもどってくるとでも思ったのかね?」
判事はハーパーに三年の実刑を言い渡した。サンドラはほっとしたが、それもつかのま、収監中の態度がよかったハーパーは、わずか一八カ月後に釈放されたのだ。
生物学の修士号を持っていたハーパーは、オマハにあるエプリー癌研究所に就職した。ここで彼は、発癌性物質であるロケット燃料の研究員としての生活を始めた。
そのころサンドラの心のなかで、ハーパーの存在はしだいに薄れつつあった。しかし実際は、さらに恐ろしい殺意が、ハーパーのなかで育っていたのである。
ハーパーは自分の研究材料である、ロケット燃料を使った復讐法を考えついた。そしてモルモットを使って生体実験をくりかえし、一九七九年、ついに「殺人カクテル」の開発に成功したのである。
一九七九年八月のある日曜日、ハーパーはごく高い純度のジェット燃料を容器に入れて、ふたたびサンドラ一家の家のまえに隠れひそんだ。台所の窓があいているのを見定めると、なかに忍びこみ、持ってきたロケット燃料を冷蔵庫のなかの牛乳瓶にそそぎ込んだ。そしてまたフタをして,もとの場所に置いた。
その日、サンドラの家には、兄のブルースと兄嫁のサリーと、二歳になる甥のチャドが泊まっていた。娘のシェリーと夫のデュアンも、もちろん家にいた。
翌朝、食堂に入ってきた夫のデュアンとブルース、それにシェリーとチャドが、ミルクをかけたコーンフレークを食べた。とたんにチャドが激しい痙攣をおこし、二杯も食べたデュアンは床に倒れた。ブルースとシェリーは、何か変な味がしたので、途中で食べるのをやめた。
結局、ブルースとシェリーは救急車で運ばれた病院で処置を受けて、一命をとりとめたものの、デュアンとチャドは苦しみぬいたあげく、息を引きとった。
司法解剖の結果、ロケット燃料による中毒死が判明した。怨恨の犯罪という筋から、ハーパーをたどるのに時間はかからなかった。
検察側はハーパーが冷酷な殺人者で、動機もきわめて自己中心的であるとして死刑を求刑し、陪審員もこれに賛成した。結婚をことわられてからも、長い年月をかけて復讐をとげようとした彼の執念は、不気味としか言いようがない。