平治元年(一一五九)、藤原信頼と結んだ源義朝は、平清盛が熊野詣でに出かけているあいだを狙って、兵をあげた。これがいわゆる平治の乱。義朝の軍は後白河上皇を誘拐し、さらに藤原通憲を討ちとった。
しかし六条河原の合戦で戦況は一変、平家側の優勢となり、義朝は命からがら東国に落ちのびた。源氏ゆかりの地、美濃(岐阜県)に辿りつくと、ここで義朝は将来にそなえて一族を各地へ散らし、自分は尾張(愛知県)に落ちていこうとした。昔からの源氏の家臣である、長田忠致《おさだただむね》を頼ろうとしたのである。
長田忠致・景致親子は一行を歓迎したが、実は平家に与して義朝を討ちとろうという腹だった。その晩、忠致は「どうぞこれまでの疲れをお癒し下さい」と、親切ごかしに義朝を風呂に誘った。義朝は疑う様子もなく、剣も帯びない裸身になって風呂に入った。ところが、潜んでいた手の者に不意を襲われ、あえない最期を遂げたのである。
そのとき、鎌田正清は別室で御馳走ぜめになっていたが、騒ぎに驚いて立ち上がろうとしたところを、背後から切りつけられ、討ちとられてしまった。
時は流れ、二一年後の治承四年(一一八〇)、源義朝の子である頼朝が兵をあげた。追いつめられた長田忠致は、今度は一変、頼朝側に寝返った。頼朝は寛大にも彼をもちいたが、実はちょっとした過失を口実に、断罪してやろうと考えていた。彼は恨みを決して忘れない男だった。
ついにある日、頼朝は長田忠致、景致父子を、罠にかけて捕らえさせた。源氏の荒くれ武士たちに、腰を蹴られ、背をつつかれ、二人はよろめきながら、頼朝の父義朝の墓前に引き立てられた。
「主君殺しの末路がどんなものか、思う存分思い知らせてやれ」
頼朝の冷酷な声が飛ぶ。父義朝は、この二人を信じたばかりに、裏切られて殺されたのだ。恨みを晴らす日を、幾度、夢に見たことか……。
役人らが地面に板を敷き、そのうえに竹竿をおき、あらがう二人を押さえつけて大の字に寝かせる。両の手を竹竿に縛りつけ、鉄釘で板と土に釘づけにした。つづいて両の足も同じように打ちつける。肉が破れ、骨がくだけ、血しぶきが上がった。
二人は悲痛な叫びをあげて許しを乞うたが、まだまだ刑は、いま始まったばかりだった。
「すぐに殺すな。出来るだけ苦しみを長引かせろ」
土のうえに打ちつけられ、身動きできなくなった二人は、つぎに役人らの手で、刀で一寸刻みに四肢を刻まれ、肉を少しずつけずり取られた。一けずりごとに、すさまじい叫びが上がり、見る間に周囲は血の海と化した。
二人が苦しまぎれに「早く殺してくれ!」と絶叫するのを、役人らはかまわず、さらに鼻をけずり、耳をけずり、目をえぐる。ついに絶叫する声も出せなくなったまま、それでも二人は血の海のなかで、数時間、生き続けていたという……。