天正一九年(一五九一)、豊臣秀吉と愛妾淀殿とのあいだに生まれた鶴松が、わずか三歳で世を去った。もう男の子を得ることは不可能だろうと考えた秀吉は、甥の秀次を養子にし、関白職をゆずった。
ところが、まもなく秀吉にふたたび子が生まれた。のちの秀頼である。秀吉はこの子を溺愛し、秀次のことは冷たくあつかうようになった。
宣教師フロエーによると、秀次は、罪人を立たせて首を一刀両断に斬り落としたり、板のうえに寝かせて、死体でも解剖するようにその四肢を切り刻んだ。あるいは罪人を的にして銃や弓矢を射たり、妊娠女の腹を割いてなかの胎児を見たりしたという。しだいに秀次は、�殺生関白�とあだ名されるようになった。
やがて秀次は捕らえられ、関白職を剥奪されて高野山に幽閉された。秀次は頭を剃ってひたすら恭順の意をあらわしたが、いまさらどうにもならなかった。文禄四年(一五九五)七月一三日、秀次のもとに使いがきて、ついに死刑を宣告した。
初めに秀次の近臣山本主殿が、つぎに山田三十朗が、そのつぎに不破万作が自害をとげ、秀次みずから三人の介錯を行なった。最後に秀次自身が、正宗の脇差しで切腹をとげた。秀次の首は伏見で秀吉に首実検されたあと、京都三条河原にさらされた。
しかし、これで終わりではない。秀次の妻妾と子供たちも、斬刑に処されることになったのである。妻妾は、秀次の子を妊娠している恐れがある。秀頼の将来のために、秀吉としては秀次の血を根絶しておかねばならなかった。
その八月二日、三条河原に三六メートル四方の堀が掘られ、垣にかこまれた。東側に塚が築かれて、秀次の首が据えられる。秀次の妻と三人の子供、さらに二四人の愛妾たちが、京都市中を引きまわされたのち、三条河原で車から下ろされて、垣のなかに引き据えられた。
正妻は、右大臣菊亭晴季の娘で三四歳。妻妾のほとんどが一〇代〜二〇代で、三人の子供たちはほんの赤ん坊かやっと三〜四歳だった。みな高い身分の生まれだったが、昨日までの華やかさと一変、今日は全員が真っ白な死装束姿である。
女たちも子供たちも、みな秀次の首に駆けよって、最後の別れを告げた。女たちは、それぞれ辞世の歌をしたためた。みな色好みの秀次が集めた、絶世の美女たちである。
ひげ面の残忍そうな処刑人が、まず愛らしい若君を母親の手から奪いとり、まるで犬でも扱うように、二刀で刺し殺した。母親も他の女たちも見物人たちも、声を忍ばせて泣いた。
つぎに処刑人は、泣き叫んで母親にしがみつく姫君を奪いとり、片手でひょいとつかみあげると、小さな胸を刀で二刺しにして投げ捨てた。さらにつぎの若君を母親から奪いとると、一刀のもとに首を切り落とす。
最後に、いよいよ妻妾たちの番である。女たちはすでに涙も涸れはて、みずからの運命を覚悟していた。ただ、出来るなら少しでも早く斬られて、この恐怖から逃れたい。それだけが、彼女たちの願いだった。
そんな妻妾たちを、男たちは一人ずつ引き立てると、長く豊かな黒髪もろとも、首をつぎつぎとはねていく。首の切り口からは真紅の血がほとばしり、白い死装束は見る見る朱に染まっていった。三十余人を斬り重ねたあとは、三条川原の大地も真っ赤な色に染まったという。