「鋸引き」という刑罰も、昔よく行なわれたものだ。『言継卿記』によると、天文十三年(一五四四)八月一一日、和田新五郎という男がモドリ橋に縛りつけられ、まず、左右の手を鋸でひき切られた。
切断された手の傷口からは骨がのぞき、罪人は血の海のなかでのたうちまわって苦しんだ。それも意にかいさぬように、役人はつぎに、罪人の首に鋸の刃をあてて、ゆっくりとひき切った。ひくほうもひかれるほうも血みどろになるという、とても見てはいられない光景だった。
「鋸引き」は特に、�主殺し�や�親殺し�のような、人道上許せない大罪に科された極刑である。昔は、首から上を地上に出し、立ったままで土に埋め、毎日少しずつ鋸で首をひき切り、一週間ほどかけてじわじわ殺す方法だった。
江戸時代以降になると、罪人を土に埋めておき、「希望者は勝手に鋸で引いてよろしい」と書いた札を立てておいた。とはいっても、実際にひく者はほとんどいなかったが。
「鋸引き」には普通、引き回しとはりつけがセットになっていた。罪人は二日間、縛られて市内を馬で引きまわされたあと、日本橋南詰の広場に連れてこられる。そこには三尺四方、深さ二尺五寸の穴が掘ってある。
穴のなかには晒し箱が置かれ、箱の底にはむしろが敷かれている。囚人は馬からおろされてむしろに坐らされ、箱のなかに立てた杭に縛りつけられる。
囚人の首には首枷板をはめ、首だけを地上に出して、その周囲は土をかけて固めてしまう。それでも逃げられる恐れがあるので、砂俵六個を重しがわりに、板のうえに置いた
傍らに長さ三尺もある鋸を置き、さらに、囚人の肩を切って出た血を塗った、竹鋸を立てかけておく。罪状とともに、「首をひきたい者はひけ」と書いた掲示板とともに、さらしものにするのである。
とはいえ、通行人が実際に罪人の首を鋸でひいたという記録はあまりない。一度だけ、日ごろの恨みを晴らそうとでもしたのか、近づいて鋸で罪人の首をひこうとした者がある。ところが、罪人があまりすさまじい顔で睨みつけたので、ギョッとしてそのまま逃げかえり、あげくは熱を出して寝ついてしまったという話も伝えられている。
罪人は二日間そうして晒されたあげく、はりつけにかけて処刑された。