天正元年(一五七三)四月、武田信玄が病死した。息子の勝頼は父の遺言だとして三河(愛知県)・遠江(静岡県)を攻撃しつづけて、それらを支配する徳川家康をはらはらさせた。
天正二年、勝頼は美濃東部へ進軍すると、折りかえし東の要衝である高天神城を落とした。そこから遠江への進出をつづけ、ついに三河への大攻撃を企んだ。まず敵の内部を攪乱してから、一気に攻め落とすという戦略である。
その道具に選ばれたのが、家康の寵愛する大賀弥四郎という男だった。弥四郎は生まれは卑しかったが、すぐれた経済能力で家康に重く用いられていた。ただの足軽から、あっというまに、三河渥美郡二十余郷を一手に牛耳る代官に取り立てられた。
しかし弥四郎の異例の出世ぶりは、同僚たちには、我慢ならないものだった。自分たちよりはるかに生まれが卑しいくせに、なぜ大きな顔をして、我々にいろいろ指図するのか。彼らは弥四郎を毛嫌いし、何かというと仲間外れにした。
疎外感を強まらせていた大賀弥四郎は、武田側の誘いに容易にのってきた。水面下の接触がつづき、武田側はついに弥四郎の籠絡に成功した。が、もう一歩のところで、彼の反逆は密告されてしまったのである。
弥四郎を可愛がっていただけに、徳川家康の怒りは激しかった。おりしも武田勝頼の侵入が始まっており、家康は家臣たちに対して、反逆者の末路の悲惨さを徹底的に思い知らせねばならぬ立場にあった。
徳川家康は、信長や秀吉にくらべて残酷な男でなかったように言われるが、実際はそうではない。彼の評判が良いのは、徳川二六〇年のあいだに、御用史家から神格化されてしまったおかげである。
弥四郎の処刑は、残虐ショーのごとく演出された。彼は顔を馬の尻に向けて乗せられ、鞍に縛りつけられた。首金もはめられ、背には旗がくくりつけられた。彼が反逆を起こしたとき、味方を集めるために使おうと用意していたものだったという。
こうして馬上の弥四郎は家康の拠点である岡崎から、新拠点の浜松へと、町中を引きまわされた。大勢の人々がその周囲をとりまき、手に手に笛や太鼓やほら貝を持って、にぎやかにはやしたてた。
最初に、弥四郎の妻子八人が、はりつけにかけられた。弥四郎自身は岡崎の町中に連れてこられ、まず両手の指をすべて切断され、足の筋を切断された。
さらに首だけを出して、生きたまま土中に埋められた。土から突き出た首には板がはめられ、そばに竹製の鋸が置かれた。通行人に、この鋸を引かせようというのだ。竹製の鋸だから、無論、切れ味は二の次三の次で、できるだけ苦しみを長引かせようとしたのである。
何人の人が竹鋸をひいたかは、定かではないが、日頃の異例の出世ぶりから、弥四郎を妬んでいる者は多かった。何人もの男たちが、彼に悪態をついては、竹鋸で少しずつ首をひき切った。弥四郎は血みどろになってのたうちながら、それでも六日間そうして生き続けたという。