元亀三年(一五七二)、讃岐国の領主である三好長治が、山田郡木太郷で鷹狩りをもよおした。鷹狩りといっても、鷹と鴨を紐で結びつけて飛ばして遊ぶ、残酷な遊びである。
ところが、なんといっても相手は、羽のはえた鳥のこと、バタバタと空中を飛びまわったあげく、勇利権之助という侍の屋敷のまえに落ちてしまった。たまたまそこにいあわせた若松という名の幼僕は、突然目の前にわけの分からないものが降ってきたのに仰天。思わず持っていた棒で、それらの鷹と鴨を打ち殺してしまったのである。
これを聞いた三好長治は激怒して、さっそく若松を捕らえさせ、牛裂きの刑を宣告した。
いよいよ刑場に、まだあどけない少年が、引き立てられてきた。顔は血の気がひいて、真っ青になっている。役人は中ほどまでくると、少年を地面に腹這いにさせて、手足をおさえつけた。
つぎに、二頭の牛が引き出されて来る。牛は早くも殺気だって、鼻をふくらませ、息づかいを荒くしている。そして役人が、必死にあらがう少年の両脚を左右にひらき、その右脚を右側の牛の脚に、つぎに左脚を、同じように左側の牛の脚にくくりつけた。
刑場に集まった人々は、思わず哀れさに息をのんだ。少年が狂ったように泣き叫ぶのも意にかいさないように、役人は火をつけた松明を、何本も牛と牛のあいだに入れて、挑発した。恐怖のあまり猛り狂った牛は、それぞれ反対の方向に、火がついたように走りだした。
そのときゾッとするような悲痛な声がひびきわたると、少年の体は股から真っ二つに引き裂かれた。おびただしい血が吹き飛び、内臓はあちこちに四散して、少年は一塊の肉片と化して、別々の方角に引きずられていった……。
これが元亀三年、讃岐の国で行なわれた、聞くも恐ろしい処刑の情況である。この刑は、戦国時代にはかなり一般的なものだったと見え、美濃の領主、斎藤秀龍は、幼い子供までを�牛裂き�で殺したと言われる。