釜ゆでといえば、石川五右衛門が油で煎り殺されたのに対して、水から茹でる方法もあった。会津の領主、蒲生家の処刑は残虐なことで知られるが、なかでも蒲生秀行(氏郷の息子)は、とくに釜ゆでの刑を好んで行なった。そのやり方も、きわめて残忍な趣向をこらしたものだ。
まず、大釜のふたに孔をあけ、そこから首だけを出せるようにする。罪人の手足を縛り、木履《きぐつ》をはかせて、水の入った釜のなかに入れてふたをかぶせる。なるべく急に熱くならないように、釜の下からとろ火をたき、ふたのすきまから徐々に油を入れながら、長い時間をかけて湯を沸かす。
ようやくぐらぐらしてきたころ、いよいよ釜のなかにドクドクと油をそそぎ込む。沸騰する湯と油で煮殺されるのだから、罪人はたまったものではない。必死に釜のふたを破って這い出そうともがき、わめき、救いを求める。秀行は、それを見て、ひそかに楽しむのである。ときには罪人の肉親に火の番をさせたというから、想像を絶する冷酷な男だったようだ。
やはり釜ゆで刑を好んだ男に、美濃の斎藤秀龍がいる。『太田牛一雑記』に、「山城(秀龍)は小科(微罪)の輩をも或いは牛割きにし、あるいは釜を据え置き、親子兄弟の者に火をたかせ煎殺事、冷たき成敗なり」とある。煎殺すという以上、こちらは油でゆでたらしい。
釜ゆでとか煮殺し刑とかいうが、特に決まったやり方があったわけではなく、『信長記』には「釜にて煮る」、『土津霊神言行録』には「熱殺」、『甲陽軍鑑』には「いり殺し」と書かれている。それぞれに、文字にふさわしい方法をとったのではないかと考えられる。