江戸時代には、斬罪以上の重刑者は、処刑前に柱に縛りつけ、馬に乗せて町をまわり、公衆に見物させた。先頭には六尺棒を持った五人の男が進み、その後に幟《のぼり》持ち、棄て札持ち、朱槍持ちの順でつづく。
罪人は白衣を着て、首に白数珠をかけ、後ろ手に縛り上げられ、裸馬に乗せられてつづく。幟には、姓名、生国、罪状、刑罰が記してある。このように大掛かりなものだから、沿道の人々は店を閉め、通りには大勢の群衆が集まってきた。通りがかりに罪人が店をみて、何か欲しいと訴えたとき、それを与えなければならない慣習になっていたので、みな気味悪がって、店を閉めたのである。
男性と女性とは磔に使う柱が異なり、男性は棒三本をキの字型にした柱、女性の場合は十字架型の柱を用いた。市中を引き回されたあと刑場に到着すると、男たちが罪人を馬からおろし、地上に置かれた磔台のうえにあおむけにして縛りつける。そのとき、肌を突きやすいように、衣類を切り裂いておく。その後、十数名で、柱を起こして立てる。
処刑開始を命じられると、磔槍をたずさえ、白衣|股引《ももひき》脚絆に縄たすきの、男二名が進み出る。二人は磔柱の左右に立ち、囚人の鼻先で、二本の槍の穂先をカチリと交差させる。これが「見せ槍」である。
つぎに片方が「ありゃ、ありゃ、ありゃ」と声をかけながら、罪人の横腹から肩先にかけて、力いっぱい突きあげる。研ぎ澄まされた穂先は、肩から上に一尺ほど突き抜ける。
ひとひねりひねって槍を引き抜くと、間髪をいれずもう一人の男が、反対側から同じように刺しつらぬく。こうして左右交互に二〇〜三〇回突きまくり、最後にとどめとして、喉をつくのである。
たいていの罪人は、初めの見せ槍で気を失った。最初の一突きだけでも内臓を貫通するから、罪人は大声で泣きわめき、傷口から血が滝のようにあふれ、臓物も一緒に流れだして惨憺たる光景となる。
ときに手もとが狂って槍が骨に突き刺さり、にっちもさっちもいかなくなる。仕方なくこじるようにして槍を抜くが、そんなときの囚人の苦しさがどんなものかは言うまでもないだろう。
二突きか三突きで死ぬのが普通だが、それでもかまわず突きつづけるので、最後は脇腹に大きな穴があいた。死骸はそのまま三日二夜のあいださらし、三日後に柱からおろして、穴に投げ捨てるのである。