わが国の死刑史でも、外国にまで悪名をひろめた刑罰は、やはりキリシタン宗徒に対する拷問だろう。『日本西教史実』『耶蘇会日本年報』など、むごたらしい処刑のさまがつぎつぎと報道され、日本は残忍な国家として知れ渡るようになった。
歴代の支配者たちは、キリシタンの弾圧に対しては考えうる限りの残酷刑を用いており、そのむごたらしさは、世界死刑史上、例のないものかも知れない。
雲仙岳の硫黄泉に信者をつけて転宗をせまる、いわゆる「温泉岳地獄」の拷問をはじめたのは、九州の松倉重政である。寛永四年(一六二七)には、パウロ内堀作右衛門らの一六人を、翌々年には長崎の信者六四人を、雲仙岳の地獄におくった。
この拷殺法は、こうである。まず、キリシタンを馬にのせて温泉岳に連れていき、裸にして両手両足を縛り、地獄谷の池に立たせる。背中を断ち割って、熱湯を傷口にひしゃくで注ぎこむ。
つぎに硫黄がたぎっているなかに、キリシタンの全身をつけたり、引き出したりを、くりかえす。体中がただれ、皮膚はやぶれ、つぎつぎと苦しみながら息たえていく。
この拷問を経験した宣教師によれば、「硫黄分をふくむ熱湯はすさまじく沸きたち、チーズのような臭いを発散している。その湯をかけられると、肉は溶け、あっというまに骨があらわになる。煮え立った飛沫がかかると、骨まで溶けてなくなった」という。
少しでも長く苦しめるため、焼けただれた傷を手当てし、なおりかかるとまた責めさいなんだそうだ。この拷問にあって棄教したものは六十数人、そして殉教した者は三三人にのぼった。