キリシタンに好意的だった織田信長の死で、日本におけるキリシタンの地位は急変した。かくて島原の乱、出島、鎖国体制の確立、宗門改役の設置と、暗いキリシタン迫害の時代が明治六年(一八七三)までつづくことになる。
慶長元年(一五九六)九月、メキシコに向かっていたイスパニア船サン・フェリペ号が、台風にあって土佐に難破到着した。報告を受けた豊臣秀吉の命で、船の積み荷はすべて召しあげられてしまう。航海長のデ・オランディアは、これに腹をたて、
「イスパニアは広大で勢力もある。こんなことをしたら、あとで思い知らされるぞ」
と、検使として派遣された増田長盛を脅かし、
「わが国では、まず相手の国に宣教師を送ってキリスト教信者を育て、そしてその後に、信者保護のために軍隊を派遣するのだ」
と、うそぶいた。驚いた長盛は、ただちに秀吉にこの話を報告する。ちょうどそのころ秀吉の耳には、南米やフィリピンに進出したイスパニア人の暗躍ぶりが伝わっていた。話を吹き込んだのは、当時イスパニアのライバルだったポルトガル人たちである。
すでに天正一五年(一五八七)に、ばてれん追放令が布告されていたが、控え目に行動していたポルトガル系のイエズス会士らに対して、イスパニア系のフランシスコ会士らは、許しもなく教会を建てたり、ことごとく秀吉の布告にさからっていた。
そんなときのデ・オランディアの一言で、ついに秀吉の堪忍袋の緒は切れた。かくてイエズス会の三人、フランシスコ会の六人、日本人信徒など、総勢二六人が処刑されることになったのである。
慶長元年一一月一五日、彼らは上京《かみぎよう》の辻で、片耳ずつを殺《そ》ぎ落とされる。二六個の耳が切られ、宣教師も信徒たちも血まみれになった。つぎに首に縄をつけられ、数珠つなぎにして市中を引きまわされることになった。寒風ふきすさぶなか、獄衣一枚という恰好で、京都から伏見、広島から博多、長崎へと、陸路二百里を引きまわされたのである。
翌年二月五日、長崎立山の丘の頂上に、二六個の十字架が一列に並べられた。中央の十字架に六名の白人宣教師が、その左右に、日本人信徒のパウロ三木やヨハネ諏訪野など、一〇名ずつが架けられた。
囚人は長崎の方を向かせられ、両手足を横木に鉄環でとめられ、首にも鉄枷をはめられた。メキシコ人修道士ヘスースは、腰かけの横木に尻がとどかないので、鉄枷に首吊りになってこと切れ、舌がぺろりと口からはみ出ていたという。
冬の太陽が沈みかけるころ、いよいよ大処刑がはじまった。立会いの長崎奉行が刑吏に処刑を命じると、信徒らはいっせいに天をあおいで聖歌を歌いはじめた。
左右両端の十字架から始まり、刑吏は槍を手につぎつぎと信徒の体を突き刺した。ある宣教師を突き刺したとき、槍が折れて体のなかにとどまると、刑吏は十字架にのぼってこれを抜きとり、再び下から突きあげたという。
九州一帯に住む信徒は刑場におしかけ、涙ながらに祈りながら、残酷に殺されていく仲間たちを見守っていた。処刑が終わったときは、すでに周囲は深い闇だった。信徒らは十字架に押しよせ、十字架上の遺体からしたたり落ちる血を、着物の端や持ってきた布にひたした。血がしみこんだ土を大切に持ち帰る者もいる。
二六人の死体は八〇日間さらされたが、この処刑は見せしめとなるどころか、「二六聖人」と呼ばれて海外にまで伝わり、堅固な信仰のシンボルとなった。のちにこの刑場は、信徒たちから聖者山と呼ばれるようになる。