慶長一五年(一六一〇)八月、オランダから家康に「ポルトガルは世界侵略が目的で、ヤソ教布教の名目で、日本も併呑しようとしている」という、ポルトガルに対する中傷文がとどいた。
そんなとき大久保長安事件が起きる。長安は卑しい生まれだが、家康に取り立てられ、財政を一手に握っていた。彼の死後、遺品のなかから小箱に入った密書が出てきた。スペインの兵力を借りて徳川の世をくつがえし、家康の六子忠輝を将軍に擁立するという陰謀計画だ。
さらに駿府城にひんぱんに怪火が起こり、キリシタンの犯行だという噂が立ったため、ついに家康はキリシタン弾圧を決意した。ポルトガル船イスパニア船の来航を禁じ、二度にわたって禁教令を発布し、みずから残虐な処刑を行なって手本を示したのである。
キリシタン大名有馬晴信の斬罪、岡本大八の火あぶり、高山右近のマニラ放逐もその一例である。元和三年(一六一七)には、日本人信徒ルイス、トマス、ビセンテなど、十数人が、死刑を宣告される。そのなかのルイスは、ある武士の新刀の切れ味をためすための、生け贄にされることになった。その武士の家に連行され、まず首を切り落とし、そのあと五体を無残に斬りきざまれたのである。
『キリシタン風土記』は、計三七九二名のキリシタンがどのような刑に処されたかを、つぎのような表で示している。
はりつけ…六〇
斬首…二一五三
火刑…四八一
獄死…六八五
寸断…二〇
穴づり…一二一
溺没(生きながら海に沈める)…二四
水責め…二二
その他…二二六