二代将軍秀忠は、父家康にならって、元和五年(一六一九)に京都で五二名のキリシタンを虐殺した。当時の京都所司代板倉勝重さえ、これには不快な顔をした。勝重は寛大な男で、キリシタンが挑戦的な態度をとらないかぎり、できるだけ弾圧を避けようとしていた。
ところが元和五年一〇月、秀忠がただちに信徒を一人残らず捕らえて皆殺しにするよう厳命してきた。勝重は仕方なく六三名のキリシタンを捕らえたが、それでもすぐに処刑しないで、牢に入れたまま放っておいた。
しかし秀忠に呼びつけられ、なぜ刑を行なわないのかと責められたため、勝重はしぶしぶ一〇月七日、五二名の処刑を行なうことになった。刑場は伏見街道に近い、加茂川の川原である。
当時の大名たちはキリシタンを火刑にするとき、出来るだけ苦しめるために、少ない薪を使い、さらに水をかけて火勢を弱めた。薪はわざと囚人の体から少し離れた場所に積んだ。それでも炎が燃えあがるとすぐ窒息死してしまうので、水をそそいで火勢を弱め、とろ火で長い時間をかけてじりじり炙り殺したのである。
さらに刑柱への縛り方もゆるやかで、自分で縄をほどいて逃げ出すことさえ可能だった。しかしそうすれば、殉教の栄誉は失われてしまうのだ。逃亡の機会を与えながら、遠火にかけて炙り殺すという、人間心理の弱みをついた前代未聞の残酷刑である。
ところが勝重は配下に命じて、薪をできるだけ多く用いて火力を大きくさせた。従来のとろ火でじりじり炙り殺す方法を避けたのである。川原には二六本の十字架が立てられ、信徒が二人ずつ背中あわせに縛りつけられた。
盲目の少女が姉とともに十字架にかけられたり、六歳の幼な子が母とともに十字架にかけられた姿は、人々の涙を誘った。刑がはじまり、炎と煙が周囲をおおいはじめると、幼児の母を呼ぶ声や、女の悲痛な叫びが刑場いっぱいにこだました。老人や子供は足に火がついただけで気を失ったり、縄が切れて炎のなかに落ちてしまう者もあった。