元和八年(一六二二)九月一〇日には、長崎立山で二六聖人いらいの大虐殺が行なわれた。イタリアのイエズス会神父スピノラほか外人宣教師九名、日本人宣教師、武士、一般信徒など、計五五名である。
みな四〜五年の獄中生活のあいだに、虐待と栄養失調で体は衰えきっていた。デ・サンフランシスコという司祭は、牢のなかの様子をこう書いている。「病人が多くて動けないまま用便を足すため、耐えられない臭気にさらされた。汚物が身を汚し、絶望のあまり病人の頭を柱に打ちつけて殺す者もいる。奉行の許しがないと死体を動かせないので、七〜八日も放ったままの死体があり、腐乱した膿汁が吹き出て、下にいる者のうえに糸のようにしたたり落ちた。あまりの臭気に牢内の者はうめき、叫びを発したものだ」
このときの処刑の犠牲者のなかには、ルシアとよばれる八〇歳の老婆もいた。彼女は皆に労《いたわ》られながら、「主の御名により天国へ召されるのですもの。どうぞご心配下さいますな」と、気丈に言い放った。火がつけられたが、薪は水に浸されているのでなかなか燃えず、哀れな老女一人を焼き殺すのに二時間以上かかった。それでもルシアは気も失わず、叫びもあげずに、ひたすら耐え抜いて神に召されていった。
この年、九州だけでも、一五〇名以上が残忍そのものの方法で処刑された。出来るだけ長時間かけて苦しめる目的で、つぎつぎと残虐な方法が考え出されたのだ。元和八年一〇月二日、長崎で死刑になった日本人信徒ルイスは、最初に真っ赤に焼いたハサミで体中の肉を一寸きざみに刻みとられ、つぎに局部を竹槍で突き刺された。
寛永元年(一六二四)一二月には、信徒のベントラ左伝次ほか九人が、氷の張った池に一日中漬けられて、凍死してしまった。家光の家臣の中川某は、土のなかに首だけ出して埋められ、三日間、首を少しずつ竹鋸で引いて殺された。
寛永九年には、ある日本人神父が穴吊るしという方法で殺された。体をぎりぎり巻きに縛って、地中に深く掘った穴のなかにさかさ吊りにするもので、血が逆流し、数時間もたつと口や鼻から血がしたたってくるという、凄惨そのものの刑だ。
これも、血が頭部に下がると早く絶命してしまうので、わざわざ頭や額やこめかみから血を抜いて、死までの時間を長引かせるという工夫がなされたという。
島原では、素裸にした女を髪の毛で木に吊るし、体にさまざまな拷問を加えてなぶり殺したり、男女を素裸にして口まで水につけ、引き出すと焼鏝を体中にあてて、また水につけ、今度は引き出して額にキリシタンと烙印をおし、石をつけて海に沈めて殺したともいう。ほかにも駿河問い、たいまつ焼き、竹籠入れ、俵責め、指切り、木馬責め、蛇責め、皮はぎなど、ありとあらゆる虐殺方法が考え出されている。