明治三八年(一九〇五)、いわゆる「臀肉切り事件」が起きて、世間を騒がせた。河合荘亮という一一歳の少年が、銭湯帰りに殺害され、臀部の肉を刃物で切り取られた事件である。その犯人と目されるのが、「臀肉切りの男三郎」と呼ばれる、有名な人食魔だった。
明治三八年五月二八日、東京麹町飯田町の停車場に、数人の人々が集まった。将校の制服姿で、腰にサーベルをさげた野口男三郎と、彼の出征を見送ろうとする友人たちである。
当時は日露戦争の真っただ中で、巷は日本海大海戦の話題で持ちきりだった。そんなご時世、男三郎は自分が、帝国陸軍�満州司令部付の通訳官�として、戦地に赴くのだと吹聴していたのである。
午後六時、ホームに汽車がすべりこんできた。仲間たちは口々に男三郎に激励の言葉をあびせた。男三郎は笑顔で礼をいい、汽車に乗り込もうとした。しかしその瞬間、麹町署の刑事たちが、物陰からぱらぱらと飛びだしてきたのである。
男三郎は一瞬うろたえたが、すぐふところに手を入れ、隠し持っていた毒薬ストリキニーネを取り出して自殺を企てようとした。しかし刑事らはストリキニーネを手からはたき落とし、彼をとりおさえた。
「野口男三郎だな!」
唇を噛んで悔しがる男三郎を、刑事らはそのまま麹町署に連行した。友人たちは茫然とした顔でホームにたちすくみ、彼らの後ろ姿を見送ったのである。
発端はこうである。明治三八年三月二七日、東京麹町で、河合荘亮という一一歳の少年が、夜道で何者かに殺害される事件が起きた。少年の死体は、頸部に鋭利な刃物による切り傷があるだけでなく、左右の尻の肉が切りとられ、さらに両眼がえぐり出されるという残虐さだった。
事件は当時の人々を驚愕させ、さまざまな推測が飛びかった。少年の肛門が損傷されていることから、当初は男色愛好者の犯行とみられたが、その線の捜査はすぐに行きづまった。
ところがやがて、野口男三郎が真犯人として浮かびあがったのである。当時二三歳で、外国語学校の学生だった男三郎は、高名な漢詩人である野口寧斎の家に下宿していた。下宿中に、寧斎の妹で当時二六歳の曾恵子と肉体関係を結び、その婚約者のような立場になっていたのである。
野口家は、寧斎、妹・曾恵子、弟・文三郎、そして母の四人暮らしだったが、寧斎は五年前からハンセン病に冒されていた。当時ハンセン病といえば、遺伝か伝染による不治の病として恐れられていた。そして、人肉がハンセン病の特効薬であるという迷信が、ひそかに流されていたのである。
「臀肉切り事件」が起きて五日後、当時の読売新聞は事件の動機として、人々のあいだで噂されていた人肉薬用説をあげ、「大阪の人肉事件のように、人肉を医薬上に用いようとする迷信によって起こったものではないか」と推量している。
大阪の事件というのは、同じ年の二月に起きた、土葬された死体を掘り起こして、その首を売った事件である。そんな社会的背景のなかで、男三郎に、恋人の兄である寧斎のハンセン病をなおすため、河合荘亮を殺害したのではないかという嫌疑がかかったのだ。
麹町署の厳しい取り調べで、ついに男三郎は犯行を自供した。彼の供述はつぎのようなものだった。
男三郎が出先から野口家に帰りかけていた夜九時ごろ、近所の写真屋のまえを、一人の男の子が歩いていくのが見えた。すぐに計画を実行しようと、男三郎は後ろからその子を羽交い締めにして抱きかかえた。子供が声をあげたので、あわてて手で口をおさえた。
そして井戸のそばに連れていき、何処の肉をけずろうかとしばらく考えたが、尻の肉がいちばんいいだろうと、ナイフで尻肉を切りとって、ハンカチで包んで野口家に持ち帰ったという。
男三郎は翌朝、学校に行くふりをして、少年の肉を書籍と一緒に風呂敷にくるんだ。途中、京橋でコンロとナベと石炭を買い、木挽町の釣り舟屋で舟を借り、櫓を漕いで一人で海上に出た。
御浜御殿から一丁ほど離れた海の沖でいかりをおろし、釣りをしているふりをしながら、持っていった肉を塩水で清め、二時間ほどぐつぐつ煮こんだ。コンロ、ナベ、肉などの残りものは、すべて海に投げ捨てたという。
尻肉を煮込んだスープだけを持ちかえり、それから、赤坂の交番のそばの店で鶏のスープ一合を購入し、野口家に帰った。午後三時ごろのことである。それから義兄(寧斎)に、今日はよいスープを買ってきたと言って、人肉の汁にスープをまぜ、さらに五香という中国の香料をくわえ、飲みやすいようにして義兄にすすめた。寧斎は何も疑う様子もなく、それを飲み干したという。
その後、男三郎は自室に曾恵子を呼んで、今日はよいスープを買ってきたと話した。自分が飲まなければ曾恵子は疑うだろうと思ったので、自分から鶏だけのスープを飲んでみせた。すると曾恵子は、義兄に飲ませたのと同じスープを、何も疑う様子もなく飲み干したというのである。