まだ道はある。私はそう思った。よりすぐれた知識を身につけることで権力と向き合うことができると考えたのである。またそうでなくとも、私にはもっと勉強をしたいという知的な欲望も強かった。そのためには外国へ留学することだと思った。
ほんとうはアメリカへ留学したかったのだが、ビザの面などいろいろと困難なことが多かったので、ひとまず日本へ行って勉強しようと思った。それを足がかりにアメリカかカナダへという、漠然とした計画を胸に東京へと旅立ち、日本の大学の留学生として勉強することになったのだった。
東京は勉強をしながら生活するにはとても快適なところだった。生活や勉強に必要なものは、高級品さえ望まなければ、簡単に安く手に入れることができた。韓国では想像もできなかったほど、東京は消費物資に溢《あふ》れた都市だった。
そして、韓国で私が頭に描いていた小さな家が東京にはあった。私が生活の理想とした、小さな家によく整った小さな庭のイメージは、あくまで想像のなかのものであって、現実に見たことのあるものではなかった。が、なんと、そのままの家が日本のあちこちにあるではないか。私はすっかりごきげんな気分になってしまった。
こうして日本のことをあまり知らないまま、最初の一年ほどはけっこう楽しい気持ちで過ぎて行った。しかし、だんだん日本語がわかってくるにつれて、外国人ならだれもが感じることなのだが、しだいに日本の嫌な面が大きく見えて来るようになっていった。
表面でのきわめて親切な態度とは裏腹な現実の行ない——しばしばそんな感じを受けることになり、やがては日本人みんなが二重人格者に思えて来る。また、何を言うにもはっきりと意見を言わないあいまいな態度に嫌気がさすことが多くなる。友だちもできたが、韓国でのようにすべての秘密を話し合おうとすると嫌がられる。他人のことにはお互いに深く立ち入らない主義だと言う人が多いのだ。にこやかな表情の反面、現実の人間関係はいたって冷たい、というのが、当時私が感じた日本人一般の印象であった。
私はしだいに日本人とつきあうことが苦痛となって来た。しかし一人でいるのはなお苦痛なので、当時は韓国人の友だちと寄り集まっては日本人の悪口を言い合い、しばしば夜を明かしたりすることも多かった。そんなときに私がよく口に出したのは、「物がすべてじゃないわ。いくら物があふれていても、精神が貧しい日本人は野蛮人よ」といった言葉だった。
私は韓国に帰りたいと思った。でもたった一年で帰ってしまっては負けである。かと言って、このまま日本にいればなんだか頭がおかしくなりそうでもあった。そんなとき、日本語学校で一緒になったフランス人の友だちが、そうした私を見るにみかねてか、パリの自分の家を利用してカレッジにでも通ったらどうかと声をかけてくれた。かなり憔《しよう》悴《すい》していた私にとって、それこそ渡りに船、学問がどうとかいうよりは、ともかく日本でも韓国でもないところでしばらく生活できることが魅力だった。
それでも私は、どうせ行くなら英語学を専攻していることもあり、本場の英語を勉強してみたいと思った。友だちにその話をすると、彼女は、ロンドンの知り合いを紹介するから、その家にホームステイをしてロンドンのカレッジに通えばどうか、またパリの自分の家を基地にしてフランス人たちともつきあえるだろうしと、親切にすすめてくれたのである。
こうして私はフランス人の友だちの好意に甘え、ロンドンに住み、パリとの間をしばしば往来することによって、日本の堅苦しい環境とはうって変わった生活をすることができたのである。ヨーロッパ人特有の明るさにふれて私の心はなごみ、しだいに持ち前の元気な性格を回復していった。
しかし、こうした生活は長く続けられるものではなかった。日本では見た目だけで異邦人と知られることはなかったが、ヨーロッパではただそこにいるだけで、嫌でも自分を異邦人と意識せざるを得ない。また、韓国人と会う機会も話す機会もほとんどなかったことも辛《つら》かった。ほんとうに贅《ぜい》沢《たく》な話だけれども、このヨーロッパでの体験は、こと生活に関する限り、疲れた心を休め、精神に活力を養うための旅以外のものではなかったように思う。
ほんとうはアメリカへ留学したかったのだが、ビザの面などいろいろと困難なことが多かったので、ひとまず日本へ行って勉強しようと思った。それを足がかりにアメリカかカナダへという、漠然とした計画を胸に東京へと旅立ち、日本の大学の留学生として勉強することになったのだった。
東京は勉強をしながら生活するにはとても快適なところだった。生活や勉強に必要なものは、高級品さえ望まなければ、簡単に安く手に入れることができた。韓国では想像もできなかったほど、東京は消費物資に溢《あふ》れた都市だった。
そして、韓国で私が頭に描いていた小さな家が東京にはあった。私が生活の理想とした、小さな家によく整った小さな庭のイメージは、あくまで想像のなかのものであって、現実に見たことのあるものではなかった。が、なんと、そのままの家が日本のあちこちにあるではないか。私はすっかりごきげんな気分になってしまった。
こうして日本のことをあまり知らないまま、最初の一年ほどはけっこう楽しい気持ちで過ぎて行った。しかし、だんだん日本語がわかってくるにつれて、外国人ならだれもが感じることなのだが、しだいに日本の嫌な面が大きく見えて来るようになっていった。
表面でのきわめて親切な態度とは裏腹な現実の行ない——しばしばそんな感じを受けることになり、やがては日本人みんなが二重人格者に思えて来る。また、何を言うにもはっきりと意見を言わないあいまいな態度に嫌気がさすことが多くなる。友だちもできたが、韓国でのようにすべての秘密を話し合おうとすると嫌がられる。他人のことにはお互いに深く立ち入らない主義だと言う人が多いのだ。にこやかな表情の反面、現実の人間関係はいたって冷たい、というのが、当時私が感じた日本人一般の印象であった。
私はしだいに日本人とつきあうことが苦痛となって来た。しかし一人でいるのはなお苦痛なので、当時は韓国人の友だちと寄り集まっては日本人の悪口を言い合い、しばしば夜を明かしたりすることも多かった。そんなときに私がよく口に出したのは、「物がすべてじゃないわ。いくら物があふれていても、精神が貧しい日本人は野蛮人よ」といった言葉だった。
私は韓国に帰りたいと思った。でもたった一年で帰ってしまっては負けである。かと言って、このまま日本にいればなんだか頭がおかしくなりそうでもあった。そんなとき、日本語学校で一緒になったフランス人の友だちが、そうした私を見るにみかねてか、パリの自分の家を利用してカレッジにでも通ったらどうかと声をかけてくれた。かなり憔《しよう》悴《すい》していた私にとって、それこそ渡りに船、学問がどうとかいうよりは、ともかく日本でも韓国でもないところでしばらく生活できることが魅力だった。
それでも私は、どうせ行くなら英語学を専攻していることもあり、本場の英語を勉強してみたいと思った。友だちにその話をすると、彼女は、ロンドンの知り合いを紹介するから、その家にホームステイをしてロンドンのカレッジに通えばどうか、またパリの自分の家を基地にしてフランス人たちともつきあえるだろうしと、親切にすすめてくれたのである。
こうして私はフランス人の友だちの好意に甘え、ロンドンに住み、パリとの間をしばしば往来することによって、日本の堅苦しい環境とはうって変わった生活をすることができたのである。ヨーロッパ人特有の明るさにふれて私の心はなごみ、しだいに持ち前の元気な性格を回復していった。
しかし、こうした生活は長く続けられるものではなかった。日本では見た目だけで異邦人と知られることはなかったが、ヨーロッパではただそこにいるだけで、嫌でも自分を異邦人と意識せざるを得ない。また、韓国人と会う機会も話す機会もほとんどなかったことも辛《つら》かった。ほんとうに贅《ぜい》沢《たく》な話だけれども、このヨーロッパでの体験は、こと生活に関する限り、疲れた心を休め、精神に活力を養うための旅以外のものではなかったように思う。