このまま韓国に帰っても、歓迎してくれる人も場所もあるはずがない。勉強にも身が入ることがなく、日本企業でのアルバイトも、疲れるだけで収入が少ない。何のために私は働いているのか? 夢がないものならば、できるだけ簡単にお金を稼ぎ、できるだけ楽に暮らすのがせめてもの人生ではないかとも思えた。
私はそれまでに何回も、酒場で働かないかと誘われたことがある。一日四、五時間働いて二万円以上になると聞いていた。そうしてお金を残す女たちもいるが、いまの私のままでは何も残せるものがない。彼女たちは「若くて美人でなくては人気がないのがホステスなのよ」と言うのだったが、お金をたくさん儲《もう》けているホステスたちが羨《うらや》ましくもあった。また、愛人の子供を産んでそれを生きがいに暮らしている女たちも羨ましく思えた。
私はあるとき、私と同じように、ホステスをやろうかどうかと逡《しゆん》巡《じゆん》し、私と一緒にならばやってもいいと言っていた留学生の友だちに連絡をとってみた。だが、どうしても私は「一緒にやろうよ」とは言えなかった。男を相手に稼ぐ勇気を出すことが私にはできなかったし、ましてや他人を誘うことなどできるわけもなかったのである。
確かに私も、彼女たちのような何かを残したいと思った。たまに寂しくなって韓国に電話をしてみても、友だちはみんな結婚して子供を産んで暮らしている。そして母や姉たちからは、「あなたはいったい何をして暮らしているの。いつまで勉強、勉強と言っているの、周りに恥ずかしくて仕方がないわ」とこぼされる。
それはそうなのだ。日本に来て一年もすれば、大部分の女たちは、家になにがしかのお金を送るとか、弟の大学の学資を出してやるなど、親孝行をするものだ。それにひきかえ私は、日本に来て三年以上経《た》っているのに、家にはお土産以上のものを送ったことがないのだ。私は日本で働く韓国のホステスたちよりはよほど親不孝者であり罪人なのだ。
クリスチャンである私は、当時から新宿にあるキリスト教会を通じて、何人もの韓国人ホステスたちを知っていた。ホステス業は、韓国にいるときの私にとっては軽《けい》蔑《べつ》すべき対象だったのだが、日本では逆に私が彼女たちから、「日本でお金を儲《もう》けられない女」とバカにされる対象となってしまった。
正直、私はほんとうにバカなのではないかと思えた。夢もなく、また彼女たちのようにお金を稼いで親孝行をすることもできない。そう思うしかなかった私は、日々追い詰められて行った。そして、私は生まれてはじめて死を考えた。ほんとうに死にたいと思ったのである。
ただ、かすかながら、死の誘惑へと一歩を踏み出そうとする私をためらわせるものがあった。それは、夢もなく、お金持ちにも権力者にもなりたいとも思わずに、ただ黙々と働く日本人の、ほがらかな笑い顔——私を打ちのめしたはずの日本人の、あの笑い顔だった。なぜあの人たちは笑うことができるのか? 私にも、夢がなくとも笑うことのできる可能性があるのだろうか? ふとそんな思いになるとき、決まって私の瞼《まぶた》の裏に鮮やかによみがえって来るのが、私にとっては忘れることのできない、ある一人の日本人男性のくったくのない笑い顔だった。
彼は私がいったんは心を預けようとも思った、たった一人の日本の男——彼の笑い顔はほんとうに魅力的だった。思い返せば、あの言いようのない笑いに象徴されていたものが、プラスもマイナスも併《あわ》せての日本そのものではなかったのだろうか。私の思いは長い間そのあたりをめぐり、悩んでは思い返し、悩んでは思い返しを繰り返していた。
韓国人がしばしば相反する価値観を同時に持つ民族であるせいなのか、あるいは憎しみと愛は表裏一体のものという人間の自然な惑情のなせるわざなのかはわからない。いずれにしても私は日本人の笑いに打ちのめされ、また日本人の笑いによって立ち上がったのである。
そして私は一変してしまった。日本人を徹底的に理解したい欲望を燃え立たせるようになっていったのである。それは、再び心から笑えるようになりたい一心のことだと言ってよい。不思議と言えば不思議な変身であったが、そうした私の変わり身の激しさはまた、韓国人に特有な性《さが》でもあった。
私はそれまでに何回も、酒場で働かないかと誘われたことがある。一日四、五時間働いて二万円以上になると聞いていた。そうしてお金を残す女たちもいるが、いまの私のままでは何も残せるものがない。彼女たちは「若くて美人でなくては人気がないのがホステスなのよ」と言うのだったが、お金をたくさん儲《もう》けているホステスたちが羨《うらや》ましくもあった。また、愛人の子供を産んでそれを生きがいに暮らしている女たちも羨ましく思えた。
私はあるとき、私と同じように、ホステスをやろうかどうかと逡《しゆん》巡《じゆん》し、私と一緒にならばやってもいいと言っていた留学生の友だちに連絡をとってみた。だが、どうしても私は「一緒にやろうよ」とは言えなかった。男を相手に稼ぐ勇気を出すことが私にはできなかったし、ましてや他人を誘うことなどできるわけもなかったのである。
確かに私も、彼女たちのような何かを残したいと思った。たまに寂しくなって韓国に電話をしてみても、友だちはみんな結婚して子供を産んで暮らしている。そして母や姉たちからは、「あなたはいったい何をして暮らしているの。いつまで勉強、勉強と言っているの、周りに恥ずかしくて仕方がないわ」とこぼされる。
それはそうなのだ。日本に来て一年もすれば、大部分の女たちは、家になにがしかのお金を送るとか、弟の大学の学資を出してやるなど、親孝行をするものだ。それにひきかえ私は、日本に来て三年以上経《た》っているのに、家にはお土産以上のものを送ったことがないのだ。私は日本で働く韓国のホステスたちよりはよほど親不孝者であり罪人なのだ。
クリスチャンである私は、当時から新宿にあるキリスト教会を通じて、何人もの韓国人ホステスたちを知っていた。ホステス業は、韓国にいるときの私にとっては軽《けい》蔑《べつ》すべき対象だったのだが、日本では逆に私が彼女たちから、「日本でお金を儲《もう》けられない女」とバカにされる対象となってしまった。
正直、私はほんとうにバカなのではないかと思えた。夢もなく、また彼女たちのようにお金を稼いで親孝行をすることもできない。そう思うしかなかった私は、日々追い詰められて行った。そして、私は生まれてはじめて死を考えた。ほんとうに死にたいと思ったのである。
ただ、かすかながら、死の誘惑へと一歩を踏み出そうとする私をためらわせるものがあった。それは、夢もなく、お金持ちにも権力者にもなりたいとも思わずに、ただ黙々と働く日本人の、ほがらかな笑い顔——私を打ちのめしたはずの日本人の、あの笑い顔だった。なぜあの人たちは笑うことができるのか? 私にも、夢がなくとも笑うことのできる可能性があるのだろうか? ふとそんな思いになるとき、決まって私の瞼《まぶた》の裏に鮮やかによみがえって来るのが、私にとっては忘れることのできない、ある一人の日本人男性のくったくのない笑い顔だった。
彼は私がいったんは心を預けようとも思った、たった一人の日本の男——彼の笑い顔はほんとうに魅力的だった。思い返せば、あの言いようのない笑いに象徴されていたものが、プラスもマイナスも併《あわ》せての日本そのものではなかったのだろうか。私の思いは長い間そのあたりをめぐり、悩んでは思い返し、悩んでは思い返しを繰り返していた。
韓国人がしばしば相反する価値観を同時に持つ民族であるせいなのか、あるいは憎しみと愛は表裏一体のものという人間の自然な惑情のなせるわざなのかはわからない。いずれにしても私は日本人の笑いに打ちのめされ、また日本人の笑いによって立ち上がったのである。
そして私は一変してしまった。日本人を徹底的に理解したい欲望を燃え立たせるようになっていったのである。それは、再び心から笑えるようになりたい一心のことだと言ってよい。不思議と言えば不思議な変身であったが、そうした私の変わり身の激しさはまた、韓国人に特有な性《さが》でもあった。