まず私は、それまでなじめなかった日本の食事に挑戦することを趣味にしていった。また、まるで興味もなかった日本の古跡を歩き回っては、日本の歴史に関心を深めていった。さらに、あまりに奇妙に見えた日本の祭りだったが、偏見なしにそのリズム、トーン、色彩、喧《けん》騒《そう》のすべてに気分を浸してみようと思った。そして、できるだけ韓国人とは距離を置いてつきあうようにしていった。
その間私は、少なくとも自覚意識では、「韓国人としての自分」がスッポリとカッコに入ったような気分で、何か無前提に自然な態度でいられたような気がする。そのためか、それまでベールをかぶっていた日本が急速に私の前に姿を現わしはじめた。
そうした日々のなかで私は、日本人にはことさら意識されることのない、ありふれた物事が織りなす無数の心のドラマの面白さと出会っていった。そうした体験そのものが楽しかった。そう、その一つ一つはとても小さいことなのだ。日本人はまさしくこの楽しさによって生きているに違いないと思えた。
お金と権力を手に入れて振る舞うことのできる楽しみを思う心が、私のなかではっきりとしぼんでゆくのが感じられた。なぜなら、「ことさらな事や物」がなくても「平々凡々たる事や物」であっても充分に楽しく生きていける世界があることを、日本人の具体的な生活のなかで確かに実感できたからである。
権力の獲得を狙《ねら》う毎日であるからこそ充実していたはずの私の日々は、とくに壮大な夢がなくとも毎日をより楽しく送ることができる日本人の生活風景のなかに、消え入るようにして所在を失い、ようやく、夢がなくとも笑える自分を手に入れることができたように思う。
忙しい毎日の生活をぬってのたまの休みに旅に出れば、行く先々の風景や名所に心を動かし、旅館に泊まれば、今日はどんな料理が出るのか、またここの温泉はどんなお湯なのかと期待することが楽しく感じられる。もちろんそれは大きな感動としてではなく、つつましい、小さな心の動きなのである。
そもそも、ほとんどの韓国人のように、私も韓国にいるときには、知らない土地へ旅をすることは辛《つら》いことだと思っていた。なぜならば韓国では観光開発がすすんでいないからだった。旅は日本人がよくするレジャーのなかでも、最も素晴らしいものであるように思う。
日本人の一日一日はきわめて忙しく過ぎてゆく。でも、日本人の幸福とはまさしくそのことなのではないか。毎日忙しく暮らすというよりは、そのように暮らしていられること、それが日本人の幸せなのではないか。私が日本人にそうした言い方をすると、ほとんどの人は「そんなことはない、自分だって楽に生活したいよ」と言う。それならばと、「もし会社でお金をあげるから、三カ月でも半年でも好きなことをしてよいと言われたらどうですか?」と聞いてみると、「それは確かに、自分なんかだったら、仕事をするよりもっと苦しいかもしれないね」と、これまたほとんどの人が言うのである。
その間私は、少なくとも自覚意識では、「韓国人としての自分」がスッポリとカッコに入ったような気分で、何か無前提に自然な態度でいられたような気がする。そのためか、それまでベールをかぶっていた日本が急速に私の前に姿を現わしはじめた。
そうした日々のなかで私は、日本人にはことさら意識されることのない、ありふれた物事が織りなす無数の心のドラマの面白さと出会っていった。そうした体験そのものが楽しかった。そう、その一つ一つはとても小さいことなのだ。日本人はまさしくこの楽しさによって生きているに違いないと思えた。
お金と権力を手に入れて振る舞うことのできる楽しみを思う心が、私のなかではっきりとしぼんでゆくのが感じられた。なぜなら、「ことさらな事や物」がなくても「平々凡々たる事や物」であっても充分に楽しく生きていける世界があることを、日本人の具体的な生活のなかで確かに実感できたからである。
権力の獲得を狙《ねら》う毎日であるからこそ充実していたはずの私の日々は、とくに壮大な夢がなくとも毎日をより楽しく送ることができる日本人の生活風景のなかに、消え入るようにして所在を失い、ようやく、夢がなくとも笑える自分を手に入れることができたように思う。
忙しい毎日の生活をぬってのたまの休みに旅に出れば、行く先々の風景や名所に心を動かし、旅館に泊まれば、今日はどんな料理が出るのか、またここの温泉はどんなお湯なのかと期待することが楽しく感じられる。もちろんそれは大きな感動としてではなく、つつましい、小さな心の動きなのである。
そもそも、ほとんどの韓国人のように、私も韓国にいるときには、知らない土地へ旅をすることは辛《つら》いことだと思っていた。なぜならば韓国では観光開発がすすんでいないからだった。旅は日本人がよくするレジャーのなかでも、最も素晴らしいものであるように思う。
日本人の一日一日はきわめて忙しく過ぎてゆく。でも、日本人の幸福とはまさしくそのことなのではないか。毎日忙しく暮らすというよりは、そのように暮らしていられること、それが日本人の幸せなのではないか。私が日本人にそうした言い方をすると、ほとんどの人は「そんなことはない、自分だって楽に生活したいよ」と言う。それならばと、「もし会社でお金をあげるから、三カ月でも半年でも好きなことをしてよいと言われたらどうですか?」と聞いてみると、「それは確かに、自分なんかだったら、仕事をするよりもっと苦しいかもしれないね」と、これまたほとんどの人が言うのである。