私はいま、住居を新宿歌《か》舞《ぶ》伎《き》町《ちよう》に設け、韓日ビジネスの通訳・翻訳業のかたわら、韓国人ホステスたちに日本語を教え、日本人たちに韓国語を教え、相変わらず日本の大学で勉強をしている。韓国人ホステスたちとは友だちにもなり、彼女たちからは「オンニ(お姉さん)」と呼ばれてしばしば人生相談などを受けたりもする。
私は彼女たちから、お金を儲《もう》ける能力もあるのに、なぜかそうしたいと思わない変な女だと思われているようだ。しかし私の方からみれば、彼女たちは、お金を儲ければ儲けるほど、悩みごともそれだけ多く、また深くなっていっているように見える。
私は歌舞伎町についてはかなり隅々まで知っている。酒場で働くアジアの女たちのなりふりも、他の日本人よりは数段よく知っていると思う。また私は食べることが好きで、どの店のどんな食べ物が美《お》味《い》しいのかにも詳しい。しかし、夕暮れどき、酒場へと向かうホステスたちの群れのかたわらを歩く、OLのような服装の私はどうにも異様である。かと言って、深夜にジーンズ姿で歌舞伎町を歩き回る私の姿もやはり異様である。そこでは、私は何者か見きわめ難い異邦人のようだ。私が朝早く学校へ行くため、新宿の駅までの道を急いでいると、裏道からすでに酔いの醒《さ》めた男が現われて、「やあ、朝帰りかい?」と言われたこともある。
韓国人でも日本人でも、またホステスでもOLでも学生でもないような私がそこにいる。正直言って、いまでは韓国人よりも日本人といるときの方が気が楽である。しかし、彼らにとっては私はあくまで異邦人であって、容易なことで胸《きよう》襟《きん》を開いてはくれない。私には心から話せるような友だちがいまだにできないでいる。
こよなく親しみを感じ、愛着深い日本であり、日本人の友だちもたくさんいるのだが、心からわかり合え信頼し合える日本人の友だちがいない。私はそうした親友がとても必要に思えるのだが、どこか韓国人という一線が相手を緊張させるのだろうか。なんともない日常のなかにふとそうした寂しさを感じるとき、私は教会へ行って神さまにお祈りすることにしている。が、私は決して敬《けい》虔《けん》なクリスチャンとは言えないかもしれない。なぜなら、私は韓国人ホステスたちと同じように、自分の幸福を神さまに祈っているからである。
そんな私は、つい最近までは、カナダへ行ってこれまで続けて来た「アメリカ—カナダ比較文化研究」に本格的に手をつける計画の成就を神さまに祈っていた。日本を足場にアメリカかカナダへ行くことが当初からの狙《ねら》いでもあった。
しかし、私はいま日本を離れがたく思うようになってしまった。それは、日本で働く韓国人ホステスたちの抱える問題が、実は私が抱え悩んできた問題と同じものと感じられるようになったからである。また、そこから私の興味が韓日文化の比較、あるいはそれに中国を加えた東アジア文化史の研究に、より大きな興味をもつようになったからでもある。
そのため私は、まだまだ日本での生活を続けたいと思っている。そして、心を分かちあえる友だちと出会うためにも、また心を許しあえる恋人と出会うためにも、決して再び閉じることのない心を自分のものにしてゆきたいと思っている。
私は彼女たちから、お金を儲《もう》ける能力もあるのに、なぜかそうしたいと思わない変な女だと思われているようだ。しかし私の方からみれば、彼女たちは、お金を儲ければ儲けるほど、悩みごともそれだけ多く、また深くなっていっているように見える。
私は歌舞伎町についてはかなり隅々まで知っている。酒場で働くアジアの女たちのなりふりも、他の日本人よりは数段よく知っていると思う。また私は食べることが好きで、どの店のどんな食べ物が美《お》味《い》しいのかにも詳しい。しかし、夕暮れどき、酒場へと向かうホステスたちの群れのかたわらを歩く、OLのような服装の私はどうにも異様である。かと言って、深夜にジーンズ姿で歌舞伎町を歩き回る私の姿もやはり異様である。そこでは、私は何者か見きわめ難い異邦人のようだ。私が朝早く学校へ行くため、新宿の駅までの道を急いでいると、裏道からすでに酔いの醒《さ》めた男が現われて、「やあ、朝帰りかい?」と言われたこともある。
韓国人でも日本人でも、またホステスでもOLでも学生でもないような私がそこにいる。正直言って、いまでは韓国人よりも日本人といるときの方が気が楽である。しかし、彼らにとっては私はあくまで異邦人であって、容易なことで胸《きよう》襟《きん》を開いてはくれない。私には心から話せるような友だちがいまだにできないでいる。
こよなく親しみを感じ、愛着深い日本であり、日本人の友だちもたくさんいるのだが、心からわかり合え信頼し合える日本人の友だちがいない。私はそうした親友がとても必要に思えるのだが、どこか韓国人という一線が相手を緊張させるのだろうか。なんともない日常のなかにふとそうした寂しさを感じるとき、私は教会へ行って神さまにお祈りすることにしている。が、私は決して敬《けい》虔《けん》なクリスチャンとは言えないかもしれない。なぜなら、私は韓国人ホステスたちと同じように、自分の幸福を神さまに祈っているからである。
そんな私は、つい最近までは、カナダへ行ってこれまで続けて来た「アメリカ—カナダ比較文化研究」に本格的に手をつける計画の成就を神さまに祈っていた。日本を足場にアメリカかカナダへ行くことが当初からの狙《ねら》いでもあった。
しかし、私はいま日本を離れがたく思うようになってしまった。それは、日本で働く韓国人ホステスたちの抱える問題が、実は私が抱え悩んできた問題と同じものと感じられるようになったからである。また、そこから私の興味が韓日文化の比較、あるいはそれに中国を加えた東アジア文化史の研究に、より大きな興味をもつようになったからでもある。
そのため私は、まだまだ日本での生活を続けたいと思っている。そして、心を分かちあえる友だちと出会うためにも、また心を許しあえる恋人と出会うためにも、決して再び閉じることのない心を自分のものにしてゆきたいと思っている。