こう言っては失礼かも知れないが、日本人のホステスは美人ばかりだとは言いがたい。いわゆる不美人とされるような女性もかなり見ることができる。それは、美人であるにこしたことはないものの、それよりも接客の技術がおおいにものを言うからのようだ。一方、韓国のホステスの条件は、一にも二にも美人であることである。
そのため、いきおい韓国クラブは美人の集まりとなるのだが、そこではさらに、美人どうしの美の競い合いが激しく闘わされることになる。そこで韓国クラブは、ある意味では女たちがみずからの美しさを試す恰《かつ》好《こう》の実験場ともなっている。
したがって、美容整形の手術に大金を惜しみなく投資する女性は少なくない。日本人には考えられないことかも知れないが、お金を儲《もう》けるためというよりは、一層自分を美人にするためにホステスをしている人も多いのだ。確かに現在は、かつてのように国へ仕送りするための出稼ぎという目的はしだいに薄れつつある。そこでは、お金のための美なのか、美のためのお金なのかも、だんだん定かではなくなっている。
美人は自分が美人であることをよく言えば素直に表に出すのだが、悪く言えば不美人の女性をあからさまに低い価値と見てしまうところがある。ホステスたちにはとくにその傾向が強い。日本的な他者への配慮や奥床しさの心情は、そこではまるで理解されることはない。
韓国女性の多くが、美人であることこそ女性の最大の財産と考える。それだけならば、諸外国の女性とそれほど変わるものではないと言われるかも知れないが、韓国の女性の場合はさらに、美をはじめ、よいもの、すぐれたものを他者に誇示すること、その直接的な表現に心地好さを感ずるという、国民性に根ざしたものがあるのだ。
私は韓国にいたときに、日本人はいいものを後ろに置いておき、あまりよくないものを前に出すというふうに聞いていた。韓国人とはまるで反対なんだなと感じていたが、日本に来てみると、そのとおりだったことに、あらためて驚いたものだった。たとえば、洋服店に行ってみると、安い服を表に出して、高い服を中に入れている。また日本人の家庭に行ってみても、大事なものはどこかにしまってあり、仲よくなると、「ところで……」と言って見せてくれることが多い。いずれも韓国とは正反対のことだ。
あるとき、大変な読書家だと自ら言う人の家に行ったことがあるが、部屋にあるのは週刊誌などの雑誌の類《たぐい》ばかりで、ほとんど書籍が見られない。私が「本を見せていただけますか」と聞くと、その家の主人は私を倉庫に連れて行って、山のように積んであるダンボールの箱を指さし、「この中がみんな本ですよ」と言うのである。当時、まだ日本人のことをよく知らなかった私はとても不思議な気持ちがしたことを覚えている。韓国人の読書家ならば、まず客間の本箱にきれいな本を陳列しておいて、ひとつのアクセサリーとするからである。
私もかつてはそのように、自分のより優れた部分を表に出そうと心がけたものである。ところが、長いあいだ日本で生活しているうちに、われながら不思議なことに、しだいにそうした自分に恥じらいを感ずるようになっていった。それは、日本の生活に慣れたからと言ってしまえばそれまでのことだが、私にはきわめて大きな心の変化だった。しかも、そこにはなぜか、単なる民族的な気質の違いでは解消できない、歴史的な問題があるように思えてならなかった。と同時に、そこから、それまでつかみ難いと思われた日本人の心情を知る糸口を、確かに見つけることができたように思えた。
そのため、いきおい韓国クラブは美人の集まりとなるのだが、そこではさらに、美人どうしの美の競い合いが激しく闘わされることになる。そこで韓国クラブは、ある意味では女たちがみずからの美しさを試す恰《かつ》好《こう》の実験場ともなっている。
したがって、美容整形の手術に大金を惜しみなく投資する女性は少なくない。日本人には考えられないことかも知れないが、お金を儲《もう》けるためというよりは、一層自分を美人にするためにホステスをしている人も多いのだ。確かに現在は、かつてのように国へ仕送りするための出稼ぎという目的はしだいに薄れつつある。そこでは、お金のための美なのか、美のためのお金なのかも、だんだん定かではなくなっている。
美人は自分が美人であることをよく言えば素直に表に出すのだが、悪く言えば不美人の女性をあからさまに低い価値と見てしまうところがある。ホステスたちにはとくにその傾向が強い。日本的な他者への配慮や奥床しさの心情は、そこではまるで理解されることはない。
韓国女性の多くが、美人であることこそ女性の最大の財産と考える。それだけならば、諸外国の女性とそれほど変わるものではないと言われるかも知れないが、韓国の女性の場合はさらに、美をはじめ、よいもの、すぐれたものを他者に誇示すること、その直接的な表現に心地好さを感ずるという、国民性に根ざしたものがあるのだ。
私は韓国にいたときに、日本人はいいものを後ろに置いておき、あまりよくないものを前に出すというふうに聞いていた。韓国人とはまるで反対なんだなと感じていたが、日本に来てみると、そのとおりだったことに、あらためて驚いたものだった。たとえば、洋服店に行ってみると、安い服を表に出して、高い服を中に入れている。また日本人の家庭に行ってみても、大事なものはどこかにしまってあり、仲よくなると、「ところで……」と言って見せてくれることが多い。いずれも韓国とは正反対のことだ。
あるとき、大変な読書家だと自ら言う人の家に行ったことがあるが、部屋にあるのは週刊誌などの雑誌の類《たぐい》ばかりで、ほとんど書籍が見られない。私が「本を見せていただけますか」と聞くと、その家の主人は私を倉庫に連れて行って、山のように積んであるダンボールの箱を指さし、「この中がみんな本ですよ」と言うのである。当時、まだ日本人のことをよく知らなかった私はとても不思議な気持ちがしたことを覚えている。韓国人の読書家ならば、まず客間の本箱にきれいな本を陳列しておいて、ひとつのアクセサリーとするからである。
私もかつてはそのように、自分のより優れた部分を表に出そうと心がけたものである。ところが、長いあいだ日本で生活しているうちに、われながら不思議なことに、しだいにそうした自分に恥じらいを感ずるようになっていった。それは、日本の生活に慣れたからと言ってしまえばそれまでのことだが、私にはきわめて大きな心の変化だった。しかも、そこにはなぜか、単なる民族的な気質の違いでは解消できない、歴史的な問題があるように思えてならなかった。と同時に、そこから、それまでつかみ難いと思われた日本人の心情を知る糸口を、確かに見つけることができたように思えた。