地方へと出かける韓国人ホステスたちは決して若くはないが、なぜ若いうちにお金を稼いで国に帰らなかったのかという疑問を、彼女たちに向けてみてもあまり意味がない。それは、彼女たちの多くが、もともと、国へ帰るつもりがないからである。日本での永住が目的なのだ。なぜそうなのかを語るためには、彼女たちの「現代ジャパゆき」の歴史を少々お話ししておかなくてはならない。
彼女たちの最初の一団は、一九七〇年代の半ば、四カ月有効の芸能人ビザで次から次へと日本に渡った女たちである。目的は、貧しい一家の生活を支えるため、弟の学費を稼ぐため、年老いた両親を養うためなど、すべてが貧困からくる問題であった。
彼女たちは芸能プロダクションを詐《さ》称《しよう》するブローカーたちに連れられてやって来たのだったが、彼女たち心は、「ただただお金が稼げれば」という、悲《ひ》愴《そう》感《かん》に満たされていた。韓国での反日感情は現在よりもケタ違いに強く、日本に関する情報はほとんど国内に伝えられることがなかった。しかも、歴史の教科書で教えられた日本は「鬼畜の国」であった。その国へ身を売るという屈辱に耐えることで家族を救うことができる。女たちの多くが、そうした覚悟を胸に渡日を決意したに違いなかった。
しかし、実際に知った日本は決して「鬼畜の国」ではなかった。それどころか、紳士的であり友好的ですらあった。私は韓国にいたころ、当時の体験者がそう語ってくれたのを、半信半疑で聞いていた。また、多くの日本人の男性が、韓国人女性の優しさとひたむきな情熱は、現代の日本人女性にはみられない魅力と感じてくれたと聞かされても、何か信じられない思いを持ったものである。
確かに、当時日本へ渡った韓国の女たちには稀《き》少《しよう》価値があった。そのため、在日韓国人の経営者たちも、彼女たちをずいぶんと優遇した。彼女たちにとって、当時の日本は、スポンサーも得やすく、また男たちへのわがままもスンナリとおる、まさしく「ホステス天国」だった。
こうして、新宿歌舞伎町を中心とする韓国人酒場の基礎を彼女たちが築いていったのである。当時日本で活躍した女たちのなかで、いま、韓国にマンションやビルをもって悠々とした生活を送っている者は多い。
彼女たちの成功は韓国の女たちをいたく刺激した。期待は過剰にふくらみ、とても韓国などでは生活していられないというムードも高まっていった。われもわれもと日本を目指す女たちが年々増えていった。そして日本にはそれに応《こた》えるだけの充分なニーズがあった。
こうした韓国の女たちをめぐる動きに対して、国際世論は「売春輸出」の名を与え、韓日の新聞も批判キャンペーンに乗り出した。韓国政府はそれに押されるようにして渡航制限をはじめ、ついに一九八四年に芸能人ビザが廃止されてしまった。
それ以来、現在に至るまで、彼女たちの激しいビザ闘争が巻き起こっている。
まず流行したのが学生ビザであり、なかでも最も手に入りやすい「日本語研修留学ビザ」に人気が集中した。そこで、日本側の受皿として、お金さえ払えば入学許可証や出席証明書を発行する、あやしげな学校が乱立することになった。これが大きな社会問題となったため、「日本語研修留学ビザ」そのものが廃止されてしまった。
次に的が校られたのが、同じ学生ビザによる専門学校への留学である。入学証明書さえ手に入れば一年は滞在できる。ただこれには、高校の卒業証明書が必要であり、三十歳までの年齢制限がある。そのため、高校卒業証明書や年齢を詐称したビザを偽造して売るブローカーが暗躍することにもなって現在に及んでいる。
最近の渡航手続きで最もポピュラーな手段は、一九八九年一月から自由化された海外観光ビザである。これは留学生ビザとは違って簡単に取得することができる。ただし、滞在期間はわずか一カ月間、運が悪ければ一五日間しか許されていない。そこで、どのようにしてこれを長期滞在へともってゆくかに、さまざまな知恵が絞られることになる。そして、彼女たちの最終課題は、この期間中に偽装の結婚相手を見つけて戸籍上の届け出を行ない、結婚ビザを取得することなのである。これで永住への可能性が開ける。
彼女たちの最初の一団は、一九七〇年代の半ば、四カ月有効の芸能人ビザで次から次へと日本に渡った女たちである。目的は、貧しい一家の生活を支えるため、弟の学費を稼ぐため、年老いた両親を養うためなど、すべてが貧困からくる問題であった。
彼女たちは芸能プロダクションを詐《さ》称《しよう》するブローカーたちに連れられてやって来たのだったが、彼女たち心は、「ただただお金が稼げれば」という、悲《ひ》愴《そう》感《かん》に満たされていた。韓国での反日感情は現在よりもケタ違いに強く、日本に関する情報はほとんど国内に伝えられることがなかった。しかも、歴史の教科書で教えられた日本は「鬼畜の国」であった。その国へ身を売るという屈辱に耐えることで家族を救うことができる。女たちの多くが、そうした覚悟を胸に渡日を決意したに違いなかった。
しかし、実際に知った日本は決して「鬼畜の国」ではなかった。それどころか、紳士的であり友好的ですらあった。私は韓国にいたころ、当時の体験者がそう語ってくれたのを、半信半疑で聞いていた。また、多くの日本人の男性が、韓国人女性の優しさとひたむきな情熱は、現代の日本人女性にはみられない魅力と感じてくれたと聞かされても、何か信じられない思いを持ったものである。
確かに、当時日本へ渡った韓国の女たちには稀《き》少《しよう》価値があった。そのため、在日韓国人の経営者たちも、彼女たちをずいぶんと優遇した。彼女たちにとって、当時の日本は、スポンサーも得やすく、また男たちへのわがままもスンナリとおる、まさしく「ホステス天国」だった。
こうして、新宿歌舞伎町を中心とする韓国人酒場の基礎を彼女たちが築いていったのである。当時日本で活躍した女たちのなかで、いま、韓国にマンションやビルをもって悠々とした生活を送っている者は多い。
彼女たちの成功は韓国の女たちをいたく刺激した。期待は過剰にふくらみ、とても韓国などでは生活していられないというムードも高まっていった。われもわれもと日本を目指す女たちが年々増えていった。そして日本にはそれに応《こた》えるだけの充分なニーズがあった。
こうした韓国の女たちをめぐる動きに対して、国際世論は「売春輸出」の名を与え、韓日の新聞も批判キャンペーンに乗り出した。韓国政府はそれに押されるようにして渡航制限をはじめ、ついに一九八四年に芸能人ビザが廃止されてしまった。
それ以来、現在に至るまで、彼女たちの激しいビザ闘争が巻き起こっている。
まず流行したのが学生ビザであり、なかでも最も手に入りやすい「日本語研修留学ビザ」に人気が集中した。そこで、日本側の受皿として、お金さえ払えば入学許可証や出席証明書を発行する、あやしげな学校が乱立することになった。これが大きな社会問題となったため、「日本語研修留学ビザ」そのものが廃止されてしまった。
次に的が校られたのが、同じ学生ビザによる専門学校への留学である。入学証明書さえ手に入れば一年は滞在できる。ただこれには、高校の卒業証明書が必要であり、三十歳までの年齢制限がある。そのため、高校卒業証明書や年齢を詐称したビザを偽造して売るブローカーが暗躍することにもなって現在に及んでいる。
最近の渡航手続きで最もポピュラーな手段は、一九八九年一月から自由化された海外観光ビザである。これは留学生ビザとは違って簡単に取得することができる。ただし、滞在期間はわずか一カ月間、運が悪ければ一五日間しか許されていない。そこで、どのようにしてこれを長期滞在へともってゆくかに、さまざまな知恵が絞られることになる。そして、彼女たちの最終課題は、この期間中に偽装の結婚相手を見つけて戸籍上の届け出を行ない、結婚ビザを取得することなのである。これで永住への可能性が開ける。