日本のホステスたちの愛人との関係と言えば、お金がもらえるから我慢するといったニュアンスが強い。実際、話をしてみると、「あのじいさんが……」などと、あからさまに嫌な顔をする女性は多い。ところが、韓国の女はそうではないのだ。
先に紹介した女子留学生の場合でもそうだが、決して相手の男を悪く言うことはない。それは体面上そうしているわけではなく、かなりな点で正直な言葉なのである。
彼女たちも、もちろん最初は純粋にお金目当てで男に接触する。が、そこに徹しきれないのだ。そのうち、必ず情が中心になってゆくのである。フィリピンや台湾の女たちはその点、一夜の相手と割り切って男とつきあうことができるが、韓国の女たちは自分だけを愛して欲しいと思うのである。そして思うだけではなく、それを韓国入特有のいちずさで求めてゆくので、いったん関係を持つと男たちはしだいに追い詰められてゆくことになる。
そこで、「韓国の女とつきあうと抜き差しならない関係になる」という、歌舞伎町に遊ぶ紳士族の常識も生まれることになるのだ。
愛人である韓国人ホステスに、「私と奥さんとどっちが大事なの」と迫られた男たちは多いはずである。とはいっても、彼女たちは結婚したいためにそう言っているのでもなく、また相手の家庭を崩壊させようなどと思っているわけでもない。ただ、自分のために男がどれだけ犠牲を払うつもりがあるかを知りたいだけである。先のことを考えているのではなく、そのときそのときの感覚で、強く求めたり簡単に放棄したりするのである。
このへんの問題については、韓国での結婚生活の実態を知らなくては、ほんとうのところがわからない。それについては後の章でご紹介することになるが、簡単に言うとこうなる。
男尊女卑の韓国社会で正妻の役割をつとめるのにはかなりの忍耐が必要であるのに比べて、愛人は贅《ぜい》沢《たく》もできるし気楽でもあるという事実が一つ。ようするに、愛しあう男女の甘い生活は、通常の結婚生活ではまず考えられるものではなく、むしろ旦《だん》那《な》と愛人の間にこそあるという現実がある。しかし一方には、韓国の女の正道は結婚だという社会倫理が厳然としてあることが一つ。この二つが彼女たちの心のなかで行ったり来たりするのである。事実、韓国では歴史的にも現在的にも、多くの男たちが、愛人には「女」を求め、正妻には「家」を求めてきている。
先に紹介した女子留学生の場合でもそうだが、決して相手の男を悪く言うことはない。それは体面上そうしているわけではなく、かなりな点で正直な言葉なのである。
彼女たちも、もちろん最初は純粋にお金目当てで男に接触する。が、そこに徹しきれないのだ。そのうち、必ず情が中心になってゆくのである。フィリピンや台湾の女たちはその点、一夜の相手と割り切って男とつきあうことができるが、韓国の女たちは自分だけを愛して欲しいと思うのである。そして思うだけではなく、それを韓国入特有のいちずさで求めてゆくので、いったん関係を持つと男たちはしだいに追い詰められてゆくことになる。
そこで、「韓国の女とつきあうと抜き差しならない関係になる」という、歌舞伎町に遊ぶ紳士族の常識も生まれることになるのだ。
愛人である韓国人ホステスに、「私と奥さんとどっちが大事なの」と迫られた男たちは多いはずである。とはいっても、彼女たちは結婚したいためにそう言っているのでもなく、また相手の家庭を崩壊させようなどと思っているわけでもない。ただ、自分のために男がどれだけ犠牲を払うつもりがあるかを知りたいだけである。先のことを考えているのではなく、そのときそのときの感覚で、強く求めたり簡単に放棄したりするのである。
このへんの問題については、韓国での結婚生活の実態を知らなくては、ほんとうのところがわからない。それについては後の章でご紹介することになるが、簡単に言うとこうなる。
男尊女卑の韓国社会で正妻の役割をつとめるのにはかなりの忍耐が必要であるのに比べて、愛人は贅《ぜい》沢《たく》もできるし気楽でもあるという事実が一つ。ようするに、愛しあう男女の甘い生活は、通常の結婚生活ではまず考えられるものではなく、むしろ旦《だん》那《な》と愛人の間にこそあるという現実がある。しかし一方には、韓国の女の正道は結婚だという社会倫理が厳然としてあることが一つ。この二つが彼女たちの心のなかで行ったり来たりするのである。事実、韓国では歴史的にも現在的にも、多くの男たちが、愛人には「女」を求め、正妻には「家」を求めてきている。