こうしたあまりに窮屈な韓国社会でも、少しずつ改革への動きは起こっている。一部の女たちが、男女差別をなくそうというキャンペーンを展開しており、また法律も若《じやつ》干《かん》変わってきてはいる。韓国では親の財産は息子だけに相続権があったが、一九九一年からは娘にも財産相続権が認められるようになっている。また、これまでは女は戸籍を持てなかったのだが、一九九一年からは持てるように法改正が進められている。
しかし、これまでの例からも、法律の改革がそのまま社会改革につながる展望はきわめて薄い。たとえば、姦《かん》通《つう》を罰する法律では、男性だけではなく女性の方からも訴えることができるなど、女性にも男性同様の権利を与える法律が作られてはいる。だが、およそ法律に訴えるような女は社会から白い目で見られるため、排除されることを覚悟で告訴しなくてはならないという現実がある。この現実が変わらない限り、あるいは、そうした現実の有効性を封じるようなところまで含んで法律が改正されない限り、韓国の社会に大きな変化が訪れることはないだろう。
日本の女たちは、私からこうした話を聞かされるたびにイライラとするようだ。「なんで韓国の女の人って、そうまでされていて黙っているの? もっともっと社会に発言すべきよ」というように。
そんなとき、私は私の体験を素直に話すしかない。
私は韓国の大学で臨床病理学を勉強したまぎれもない知識人である。したがって、ほんらいなら私のような存在が、「もっともっと社会に発言すべき」なのだ。ところが私は、韓国の一般の女と同じように、女の権利などというものを考えたこともなく、政治や経済についてはほとんどまともな興味をもっていなかった。
それは日本に留学してしばらくたっても変わりはなかったが、日本語が達者になり、日本の企業の通訳の仕事をするようになってから、しだいに変化が訪れるようになったのである。ある日本企業のビジネスマンたちの会議に出席した折り、韓国のある経済事情について、なぜか私にいきなり意見が求められた。
韓国ではあり得ないことなのでびっくりしたが、率直な感想でいいからと言われ、私はつたない知識で幼稚な見解を述べた。彼らはそれを熱心に聞いてくれ、「うん、それは一つの考え方だな」と言ってくれたのである。いまにして思えば、まるで考えとしてのまとまりすらない話をしたのだったが、それ以来私は、政治や経済の動きに興味が出て、いまではなんとか、ひととおりの意見を言えるようになった。
自分なりの意見を持てば、そういう話題が出たときには意見を言いたくなるのが人間というもの。いつか、韓国人ビジネスマンたちの集まりにやはり通訳として出た折りに、彼らの話している日本経済の話題のなかに事実的な誤りがあったので、つい口をはさんでしまったことがある。ところが、その場では、まるで私が発言しなかったかのように、まったく無視されたまま、男たちの話が続けられたのである。
結局私の言いたいことは、女だけの主張では社会は変わらないということ。女の権利を認めることが男にとっても大切であるような基盤が社会になければ、つまり男の方にもそれを求める必要性がなければ、いつまでたっても実際的な男女平等など達成できないということだ。
日本の場合は、もともと、たてまえの亭主関白があって、実質的なカカア天下があるという、「二重権力」で多くの庶民たちの家庭が支えられてきた。家族の原理が韓日では同じように儒教の影響を受けてきたとは言え、その根本の陰《いん》陽《よう》観《かん》(男女観)には根本的な違いがある。日本のそれは、陰(女)と陽(男)との調和、あるいは陰あっての陽、陽あっての陰という相互性をポイントにした陰陽思想である。これが西欧的な男女平等思想をよく日本的にこなしているように見える。ところが韓国のそれは、「陰か陽」という対立する陰陽思想なのである。
地域と地域の関係だけでなく、男と女の関係も対立が原理なのだ。この原理が韓国では、すべての人間関係を覆っている。
こう言うと、救いようがないように見える。多くの日本人が「そう言ってしまってはみもふたもない」と言う。確かにそうである。しかし、そう思えてしまうからこそ、韓国で社会改革を唱える多くの人が、「韓国を変えるには革命しかない」と考えることにもなるのだと思う。
どうしたらいいのか、私自身はさっぱりわからない。ただ安易に解決可能だと思うことは戒めなくてはならないと思う。近代国家がどこでも体験してきた民主化運動をそのまま真《ま》似《ね》ただけでは、韓国は変わることはないだろう。何かまだ、私たちには見えない、あるいは気がつかないものがあって、それを韓国人自身が発見しない限り展望は開けない。私はそれを映し出すひとつの鏡を日本が持っているように思えてならない。
しかし、これまでの例からも、法律の改革がそのまま社会改革につながる展望はきわめて薄い。たとえば、姦《かん》通《つう》を罰する法律では、男性だけではなく女性の方からも訴えることができるなど、女性にも男性同様の権利を与える法律が作られてはいる。だが、およそ法律に訴えるような女は社会から白い目で見られるため、排除されることを覚悟で告訴しなくてはならないという現実がある。この現実が変わらない限り、あるいは、そうした現実の有効性を封じるようなところまで含んで法律が改正されない限り、韓国の社会に大きな変化が訪れることはないだろう。
日本の女たちは、私からこうした話を聞かされるたびにイライラとするようだ。「なんで韓国の女の人って、そうまでされていて黙っているの? もっともっと社会に発言すべきよ」というように。
そんなとき、私は私の体験を素直に話すしかない。
私は韓国の大学で臨床病理学を勉強したまぎれもない知識人である。したがって、ほんらいなら私のような存在が、「もっともっと社会に発言すべき」なのだ。ところが私は、韓国の一般の女と同じように、女の権利などというものを考えたこともなく、政治や経済についてはほとんどまともな興味をもっていなかった。
それは日本に留学してしばらくたっても変わりはなかったが、日本語が達者になり、日本の企業の通訳の仕事をするようになってから、しだいに変化が訪れるようになったのである。ある日本企業のビジネスマンたちの会議に出席した折り、韓国のある経済事情について、なぜか私にいきなり意見が求められた。
韓国ではあり得ないことなのでびっくりしたが、率直な感想でいいからと言われ、私はつたない知識で幼稚な見解を述べた。彼らはそれを熱心に聞いてくれ、「うん、それは一つの考え方だな」と言ってくれたのである。いまにして思えば、まるで考えとしてのまとまりすらない話をしたのだったが、それ以来私は、政治や経済の動きに興味が出て、いまではなんとか、ひととおりの意見を言えるようになった。
自分なりの意見を持てば、そういう話題が出たときには意見を言いたくなるのが人間というもの。いつか、韓国人ビジネスマンたちの集まりにやはり通訳として出た折りに、彼らの話している日本経済の話題のなかに事実的な誤りがあったので、つい口をはさんでしまったことがある。ところが、その場では、まるで私が発言しなかったかのように、まったく無視されたまま、男たちの話が続けられたのである。
結局私の言いたいことは、女だけの主張では社会は変わらないということ。女の権利を認めることが男にとっても大切であるような基盤が社会になければ、つまり男の方にもそれを求める必要性がなければ、いつまでたっても実際的な男女平等など達成できないということだ。
日本の場合は、もともと、たてまえの亭主関白があって、実質的なカカア天下があるという、「二重権力」で多くの庶民たちの家庭が支えられてきた。家族の原理が韓日では同じように儒教の影響を受けてきたとは言え、その根本の陰《いん》陽《よう》観《かん》(男女観)には根本的な違いがある。日本のそれは、陰(女)と陽(男)との調和、あるいは陰あっての陽、陽あっての陰という相互性をポイントにした陰陽思想である。これが西欧的な男女平等思想をよく日本的にこなしているように見える。ところが韓国のそれは、「陰か陽」という対立する陰陽思想なのである。
地域と地域の関係だけでなく、男と女の関係も対立が原理なのだ。この原理が韓国では、すべての人間関係を覆っている。
こう言うと、救いようがないように見える。多くの日本人が「そう言ってしまってはみもふたもない」と言う。確かにそうである。しかし、そう思えてしまうからこそ、韓国で社会改革を唱える多くの人が、「韓国を変えるには革命しかない」と考えることにもなるのだと思う。
どうしたらいいのか、私自身はさっぱりわからない。ただ安易に解決可能だと思うことは戒めなくてはならないと思う。近代国家がどこでも体験してきた民主化運動をそのまま真《ま》似《ね》ただけでは、韓国は変わることはないだろう。何かまだ、私たちには見えない、あるいは気がつかないものがあって、それを韓国人自身が発見しない限り展望は開けない。私はそれを映し出すひとつの鏡を日本が持っているように思えてならない。