ヤンバンはチョムジャーヌンサラム(おとなしい者)でなければならないとされる。つまり、必要のないことをペラペラとしゃべったり、とくに冗談などを言ってはならず、口数を少なくしていなくてはならない。そして、たまに話す言葉は立派な説教の言葉にならなければならない。上の者が下の者にかける言葉は常に「教え」であり、下の者はその話を受けて「教えられる」ことが、李氏朝鮮時代のあるべき上下関係であった。こうした関係が、いまでも好ましい関係とされている。そこで、少ない言葉で人を動かす話のできることが男の条件ともなる。
日本には「口は災いのもと」など、口数の多いことを戒めるコトワザがあるが、韓国ではチョンニャンビスールカムヌンダ、直訳すると「数えられない借金を返す」という言い方がある。多言をよくないこととする点では同じものだが、その意味は正反対である。この言葉では、「言葉ひとつで莫《ばく》大《だい》な借金も返さなくてよくなるようにできる人は立派だ」ということが意味されているのである。つまり日本の場合には、言葉の働きが悪い事態を引き起こすことを恐れる慎みが評価され、韓国の場合には、言葉を積極的に働かせてよい事態を生み出すことが評価されているのだ。
口数を少なくする目的が自ずから異なっているところが面白い。欧米の人たちが、東洋人は一様に無口だとは言っても、なにゆえの無口かについては、やはりほとんどわかっていないに違いない。
人を感動させ泣かすだけの言葉は立派だが、間違っても笑わせてはならない。金大中《キムデジユン》の人気のひとつがこの弁舌の巧みさであるが、彼も聴衆を笑わせることは決してしない。日本の政治家や企業家が、欧米人ほどではないにせよ、演説やパーティーなどでは巧みに人を笑いに誘い、場の緊張を和らげようとする姿はまず韓国では見ることができない。
人をよく笑わせ、心を楽しく浮き立たせてくれる男性は、日本でも韓国でも女性の人気を獲得するが、韓国ではそうした興味をひく男はチョムチャンチアンタ(上品でない)、つまりヤンバンらしくない男だと言って、夫の対象としてはふさわしくないとされる。
こうした価値観は友だち関係では別だが、社会的な関係のすべてについても言える。私がロンドンのカレッジに留学していたときに、ホームステイをした家の女主人が私を盛んに笑わせようとするのだが、私にはそうして欲しくない気持ちがあってとても煩わしく感じたものだった。また女主人は、イギリスの政界で最も人気のあるのがエリザベス女王の娘、アン王女だと言う。その理由をたずねて、それは、彼女がウィットに富んだ話で国会の固い雰囲気を壊す才能を持っているからであり、そのため国民にもとても愛されているのだと聞かされながら、「なんて不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》なんだろう」と心のなかで憤慨したものである。
厳粛な場の固い雰囲気をウィットをもって壊すことが、なぜ喜ばれるのかが長い間わからなかったが、その後の日本生活のなかで、それは壊すのではなく和らげるのだというニュアンスがわかるようになって、ようやく理解できたのである。
韓国の女たちにとって男らしい男とは「義力ある男」だ。つまりリードする力、あるいは征服する力のある男である。そのため女たちには、軍人や運動選手の人気が高い。頭がよくても弱々しいソウル大学の学生よりも、勇ましい陸軍士官学校の学生の方が数段人気がある。そのため、陸軍士官学校出身の男の妻には、韓国で最も名高いお嬢さん学校である梨花《イフア》女子大学の出身者か美人が多いのである。
陸軍士官学校出の男はすべての女のあこがれの的だったため、かつて陸軍士官を恋人にもっていたときの私は鼻高々であった。そして、会うときにはいつも軍服を着て来て欲しいとたのんだものだ。私の家族も「ほんとうに立派な男にめぐりあったものだ」と喜んでくれ、できるだけ早く結婚することを望んだ。
私は結局、その男とは別れてしまったために、今度は「結婚封じ」とでも言うべき状況を迎えることになったのだったが、友だちの羨《せん》望《ぼう》を浴び親の祝福を受け、前途の明るさに心を躍らせていたあの当時の私は、確実に私のなかから消え去っている。
当時は自分を強く押し出す男こそ真の男だと思っていた私も、いまでは、女の主張に受身で応《こた》えてくれ、女の側に従順さを押しつけることのない日本の男の優しさが、どれだけ女の気分を楽にしてくれるかを知った。そして、自己主張のないように見えた日本人が、お互いに自分を強く押し出さないことのなかで自分を主張し合おうとする人たちなのだということも、よく理解できたように思う。
日本には「口は災いのもと」など、口数の多いことを戒めるコトワザがあるが、韓国ではチョンニャンビスールカムヌンダ、直訳すると「数えられない借金を返す」という言い方がある。多言をよくないこととする点では同じものだが、その意味は正反対である。この言葉では、「言葉ひとつで莫《ばく》大《だい》な借金も返さなくてよくなるようにできる人は立派だ」ということが意味されているのである。つまり日本の場合には、言葉の働きが悪い事態を引き起こすことを恐れる慎みが評価され、韓国の場合には、言葉を積極的に働かせてよい事態を生み出すことが評価されているのだ。
口数を少なくする目的が自ずから異なっているところが面白い。欧米の人たちが、東洋人は一様に無口だとは言っても、なにゆえの無口かについては、やはりほとんどわかっていないに違いない。
人を感動させ泣かすだけの言葉は立派だが、間違っても笑わせてはならない。金大中《キムデジユン》の人気のひとつがこの弁舌の巧みさであるが、彼も聴衆を笑わせることは決してしない。日本の政治家や企業家が、欧米人ほどではないにせよ、演説やパーティーなどでは巧みに人を笑いに誘い、場の緊張を和らげようとする姿はまず韓国では見ることができない。
人をよく笑わせ、心を楽しく浮き立たせてくれる男性は、日本でも韓国でも女性の人気を獲得するが、韓国ではそうした興味をひく男はチョムチャンチアンタ(上品でない)、つまりヤンバンらしくない男だと言って、夫の対象としてはふさわしくないとされる。
こうした価値観は友だち関係では別だが、社会的な関係のすべてについても言える。私がロンドンのカレッジに留学していたときに、ホームステイをした家の女主人が私を盛んに笑わせようとするのだが、私にはそうして欲しくない気持ちがあってとても煩わしく感じたものだった。また女主人は、イギリスの政界で最も人気のあるのがエリザベス女王の娘、アン王女だと言う。その理由をたずねて、それは、彼女がウィットに富んだ話で国会の固い雰囲気を壊す才能を持っているからであり、そのため国民にもとても愛されているのだと聞かされながら、「なんて不《ふ》真《ま》面《じ》目《め》なんだろう」と心のなかで憤慨したものである。
厳粛な場の固い雰囲気をウィットをもって壊すことが、なぜ喜ばれるのかが長い間わからなかったが、その後の日本生活のなかで、それは壊すのではなく和らげるのだというニュアンスがわかるようになって、ようやく理解できたのである。
韓国の女たちにとって男らしい男とは「義力ある男」だ。つまりリードする力、あるいは征服する力のある男である。そのため女たちには、軍人や運動選手の人気が高い。頭がよくても弱々しいソウル大学の学生よりも、勇ましい陸軍士官学校の学生の方が数段人気がある。そのため、陸軍士官学校出身の男の妻には、韓国で最も名高いお嬢さん学校である梨花《イフア》女子大学の出身者か美人が多いのである。
陸軍士官学校出の男はすべての女のあこがれの的だったため、かつて陸軍士官を恋人にもっていたときの私は鼻高々であった。そして、会うときにはいつも軍服を着て来て欲しいとたのんだものだ。私の家族も「ほんとうに立派な男にめぐりあったものだ」と喜んでくれ、できるだけ早く結婚することを望んだ。
私は結局、その男とは別れてしまったために、今度は「結婚封じ」とでも言うべき状況を迎えることになったのだったが、友だちの羨《せん》望《ぼう》を浴び親の祝福を受け、前途の明るさに心を躍らせていたあの当時の私は、確実に私のなかから消え去っている。
当時は自分を強く押し出す男こそ真の男だと思っていた私も、いまでは、女の主張に受身で応《こた》えてくれ、女の側に従順さを押しつけることのない日本の男の優しさが、どれだけ女の気分を楽にしてくれるかを知った。そして、自己主張のないように見えた日本人が、お互いに自分を強く押し出さないことのなかで自分を主張し合おうとする人たちなのだということも、よく理解できたように思う。