韓国の延世《ヨンセ》大学の語学堂では、外国人のための韓国語の講座があるが、その教科書にこのシムチォンの話が載っている。私がそこの日本人学生たちと話したとき、これを読んだ彼らは一様に、シムチォンの気持ちはまったく理解できないと言った。そして、なぜこのような話が童話になるのか、大きな疑問を持つと言う。
韓国でこの童話に文句を言う人はまずいない。親孝行と言えばすぐにシムチォンが引き合いに出されるのである。私も長い間、この話をよき親孝行倫理のお手本のように思ってきたが、日本人学生たちはみな、「シムチォンの親孝行はあまりにも利己的なものだ」と言う。これを聞いて、日本に来て間もなかった私はかなりなショックを受けた。シムチォンには自分がないと言われるかもしれないとは思っていたが、まさか利己的だと言われるとは思ってもみなかった。
しかし日本に生活していることは恐ろしいもので、やがて私は、この童話では「親子の愛が戒律になっているため互いの愛が孤立している」ことを示している——そう考えるようになっていったのである。
間もなく私は、日本にも同じようなパターンの説話があることを知ったが、なぜ、日本で読めば戒律に縛られた不幸の話となり、韓国で読めば親孝行の手本を示す話となるのだろうか。どこでどう違って来たのかが疑問だった。そして最近、ある日本人と話していて気がつくことがあった。
日本の出雲《いずも》地方の神話に、毎年、大蛇《おろち》に処女を生《い》け贄《にえ》として捧げることと引きかえに、災を及ぼさないようにしてもらっていた村に、スサノオという神がやって来て大蛇を退治し、以後村に平穏が訪れ、スサノオと生け贄となるはずだった処女とが結婚して国土の開発が始められたという、有名な話がある。
私の出身地である済州島にも、これとほとんどそっくりな話が伝承されている。日本のスサノオの話と同じように、毎年大蛇に処女を捧げていた村があったが、後にある男がその大蛇を退治したという話である。
この韓日でともに語られる説話の意味するところが何であるのか、いろいろと推測ができるにせよ、私にとってはいまだ課題である。
処女が生け贄となって村の平和をはかったという伝承が、韓国では話の前半だけが強調され、親孝行の倫理に結びつけられて語られる。後半の、生け贄の廃止をもたらした神と処女との結婚で国土開拓の端緒がつけられたという話が落とされているのだ。やはりこれは、外部からの物理的な侵略を受け続けて来た歴史が変形させたものと考えるべきだろうか。
韓国でこの童話に文句を言う人はまずいない。親孝行と言えばすぐにシムチォンが引き合いに出されるのである。私も長い間、この話をよき親孝行倫理のお手本のように思ってきたが、日本人学生たちはみな、「シムチォンの親孝行はあまりにも利己的なものだ」と言う。これを聞いて、日本に来て間もなかった私はかなりなショックを受けた。シムチォンには自分がないと言われるかもしれないとは思っていたが、まさか利己的だと言われるとは思ってもみなかった。
しかし日本に生活していることは恐ろしいもので、やがて私は、この童話では「親子の愛が戒律になっているため互いの愛が孤立している」ことを示している——そう考えるようになっていったのである。
間もなく私は、日本にも同じようなパターンの説話があることを知ったが、なぜ、日本で読めば戒律に縛られた不幸の話となり、韓国で読めば親孝行の手本を示す話となるのだろうか。どこでどう違って来たのかが疑問だった。そして最近、ある日本人と話していて気がつくことがあった。
日本の出雲《いずも》地方の神話に、毎年、大蛇《おろち》に処女を生《い》け贄《にえ》として捧げることと引きかえに、災を及ぼさないようにしてもらっていた村に、スサノオという神がやって来て大蛇を退治し、以後村に平穏が訪れ、スサノオと生け贄となるはずだった処女とが結婚して国土の開発が始められたという、有名な話がある。
私の出身地である済州島にも、これとほとんどそっくりな話が伝承されている。日本のスサノオの話と同じように、毎年大蛇に処女を捧げていた村があったが、後にある男がその大蛇を退治したという話である。
この韓日でともに語られる説話の意味するところが何であるのか、いろいろと推測ができるにせよ、私にとってはいまだ課題である。
処女が生け贄となって村の平和をはかったという伝承が、韓国では話の前半だけが強調され、親孝行の倫理に結びつけられて語られる。後半の、生け贄の廃止をもたらした神と処女との結婚で国土開拓の端緒がつけられたという話が落とされているのだ。やはりこれは、外部からの物理的な侵略を受け続けて来た歴史が変形させたものと考えるべきだろうか。