ある日本の評論家の本を読んでいたら、日本の教育ママ登場の背景には核家族化があると論じられていた。簡単に言えば、核家族化によって戦後日本の家族の目的が一気に子供のよりよき成長へと集中されるようになったということだった。
韓国でも確かに核家族化が教育ママの増大に拍車をかけている。が、韓国の母親たちの子供への教育熱はいまにはじまったことではない。核家族化が進む以前から、すでにすさまじいものがあったのである。
韓国の家族は、着る服から学校の成績やスポーツに至るまで、よその子には決して負けないようにと子供を育てる。その対抗意識の激しさは、ヒエラルヒーをいかに昇りつめるか、いかに人より上に行くかを人生の目的とする、親の意識そのものの表れである。結局、子供たちは親の愛と言うよりは、多くの場合、親の欲望の対象となってしまっているのだ。
日本の教育ママにもすさまじい人がいることは知っている。しかし一方に、学校で宿題を出しすぎる、受験を目的にした勉強のあり方はおかしいと、これまたすさまじい勢いで学校に反発する逆の教育ママも同じくらいに多い。こうしたタイプの教育ママは韓国ではほとんど見ることができない。日本という国は常にどこか、バランスをとらないではいられないような文化の仕組みがあるように見える。
韓国の教育ママが、近代的な教育熱心な母親とは少々異なっていることを象徴的に物語っているのが、小学校の先生の収入の多さである。高等学校の先生より数段豊かな生活ができるのが、小学校の先生なのである。かと言って、格別に給料がよいわけではない。韓国の教育ママたちがこぞって「献金」をするからなのである。
日本でも「つけ届け」と言って、教師たちに盆暮の贈り物などをする人もあるようだが、韓国の場合はそんな「ケチ」なものではない。堂々と現金を手渡すし、贈り物も高価なものしか贈らないのである。私の知るお金持ちのなかには、教師の子供が音楽好きだと聞いて、グランドピアノを届けさせた者もいる。もちろん教師は、お礼を言ってあり難く受け取ってくれたと言う。
私の友だちが、小学校二年生の子供を置いて、観光で日本に一カ月ばかり来ていたことがある。多くの場合、小学生の母親は子供に付き添うようにして勉強をみているので、「子供はどうしてるの?」と聞いたら、「学校の先生にお金と贈り物をして頼んであるから安心なの」と言っていた。
また私の姉は、小学校二年生と三年生の子供をもっている。私は「いろいろ案内するから日本に遊びに来ない?」と誘ったことがあるが、姉はそのとき「毎月の試験の競争が激しくて、いつも私が側《そば》でみてないと成績が下がってしまうから行けないわ」と言うのだった。
子供が高校に入れば、教育ママたちは、子供の毎日の勉強のため、よりよい条件づくりに忙しく働く。また、資料を集めたりしながらどの大学のどの学部へ行くかまでを決め、子供にそれを目指して勉強をするように方向づけてやる。
お金持ちの家ではそれこそ湯水のように投資を惜しまず、また貧乏な家では家計をきりつめ、親の服や靴は粗末なものですまし、借金をしてでも子供への投資に努力を傾ける。
こうして、わが身を削り、磨くだけ磨いてきた宝物であるだけに、子供が親の期待とは異なった方向に進みたいと言おうものなら、母親はほとんど絶望せんばかりの悲しみとともに、大きな怒りを表す。母の努力に報いるという倫理が、母の欲望の犠牲を数多くつくり出してしまうのも事実である。
私があるアメリカ人の若い女性にこういう話をしたら、彼女は「結婚前は韓国で生活し、結婚後はアメリカで生活したい」と言って笑ったので、私も思わずつられて笑ったが、その途端にすぐ笑いが冷めて、何か急に気が重くなったことを覚えている。それは、彼女のジョークによって、私自身がそんな気分になっていることを、見透かされたような気がしたからである。
韓国でも確かに核家族化が教育ママの増大に拍車をかけている。が、韓国の母親たちの子供への教育熱はいまにはじまったことではない。核家族化が進む以前から、すでにすさまじいものがあったのである。
韓国の家族は、着る服から学校の成績やスポーツに至るまで、よその子には決して負けないようにと子供を育てる。その対抗意識の激しさは、ヒエラルヒーをいかに昇りつめるか、いかに人より上に行くかを人生の目的とする、親の意識そのものの表れである。結局、子供たちは親の愛と言うよりは、多くの場合、親の欲望の対象となってしまっているのだ。
日本の教育ママにもすさまじい人がいることは知っている。しかし一方に、学校で宿題を出しすぎる、受験を目的にした勉強のあり方はおかしいと、これまたすさまじい勢いで学校に反発する逆の教育ママも同じくらいに多い。こうしたタイプの教育ママは韓国ではほとんど見ることができない。日本という国は常にどこか、バランスをとらないではいられないような文化の仕組みがあるように見える。
韓国の教育ママが、近代的な教育熱心な母親とは少々異なっていることを象徴的に物語っているのが、小学校の先生の収入の多さである。高等学校の先生より数段豊かな生活ができるのが、小学校の先生なのである。かと言って、格別に給料がよいわけではない。韓国の教育ママたちがこぞって「献金」をするからなのである。
日本でも「つけ届け」と言って、教師たちに盆暮の贈り物などをする人もあるようだが、韓国の場合はそんな「ケチ」なものではない。堂々と現金を手渡すし、贈り物も高価なものしか贈らないのである。私の知るお金持ちのなかには、教師の子供が音楽好きだと聞いて、グランドピアノを届けさせた者もいる。もちろん教師は、お礼を言ってあり難く受け取ってくれたと言う。
私の友だちが、小学校二年生の子供を置いて、観光で日本に一カ月ばかり来ていたことがある。多くの場合、小学生の母親は子供に付き添うようにして勉強をみているので、「子供はどうしてるの?」と聞いたら、「学校の先生にお金と贈り物をして頼んであるから安心なの」と言っていた。
また私の姉は、小学校二年生と三年生の子供をもっている。私は「いろいろ案内するから日本に遊びに来ない?」と誘ったことがあるが、姉はそのとき「毎月の試験の競争が激しくて、いつも私が側《そば》でみてないと成績が下がってしまうから行けないわ」と言うのだった。
子供が高校に入れば、教育ママたちは、子供の毎日の勉強のため、よりよい条件づくりに忙しく働く。また、資料を集めたりしながらどの大学のどの学部へ行くかまでを決め、子供にそれを目指して勉強をするように方向づけてやる。
お金持ちの家ではそれこそ湯水のように投資を惜しまず、また貧乏な家では家計をきりつめ、親の服や靴は粗末なものですまし、借金をしてでも子供への投資に努力を傾ける。
こうして、わが身を削り、磨くだけ磨いてきた宝物であるだけに、子供が親の期待とは異なった方向に進みたいと言おうものなら、母親はほとんど絶望せんばかりの悲しみとともに、大きな怒りを表す。母の努力に報いるという倫理が、母の欲望の犠牲を数多くつくり出してしまうのも事実である。
私があるアメリカ人の若い女性にこういう話をしたら、彼女は「結婚前は韓国で生活し、結婚後はアメリカで生活したい」と言って笑ったので、私も思わずつられて笑ったが、その途端にすぐ笑いが冷めて、何か急に気が重くなったことを覚えている。それは、彼女のジョークによって、私自身がそんな気分になっていることを、見透かされたような気がしたからである。