私はいまでも、外国人留学生たちが集まる国際サークルに行くことがよくあるが、日本へ来て三年近く経《た》ったある時期、頻繁に足を運んだことがある。欧米人やアジア諸国の人たちとしきりに話したかったのである。
そのころ、私は日本人特有の「あいまいさ」をどう理解したらいいかがわからなくて深刻に悩んでいた。他の外国人たちはどう考えているのだろうかと、盛んに彼らの話を聞いて回ったのである。そして聞く先々で、彼らが私以上に理解していないことを知らされ、愕《がく》然《ぜん》とするとともに、余計に落ちこんでしまったことを覚えている。
深いところでは、韓国人は日本人以上に、多くの外国人たちに理解されていないと言えるのだが、表面的にはきわめて欧米人と韓国人は互いの理解がしやすいのである。まず第一に、欧米人も韓国人も言いたいことをはっきりと言う。これで、ともかくも、相手が何を考えているかを知ることができ、一応コミュニケーションが成立する。
ところが日本人はそうはいかない。たとえば自宅を訪ねて来た日本人に、「コーヒーにしますか? それともお茶にしますか?」と聞くと、「どちらでもけっこうです」と言う人が多い。これがわからない。何か食事をとろうと、「何がいいですか?」と聞くと、「なんでもいいです」と言う人が多い。仕方がないので、「お寿《す》司《し》にしますか? 丼《どんぶり》ものにしますか?」と聞くと、またまた「どちらでもけっこうです」となる。これであっけにとられる外国人が多いのだ。
先にも述べたように、学生と話してみても、彼らにはよりよい成績を取りたいという欲望が感じられない、ビジネスマンと話してみても、出世してトップを目指そうとする夢もないようだ、歳《とし》をとったら仕事をやめて、楽をしてのんびりと暮らして生きたいという気持ちもないようだ、いくら話をしても、はっきりとした自分の主張が出てこない、いったい彼らは何を考えているのか、ということになってしまう。
ようするに、ただただ毎日学校に通い、また職場の仕事をこなし、死ぬまで仕事を続けること、それ自体に喜びを感じているとしか思えないような反応が、多くの日本の男たちから返ってくるのだ。そこで、「何が楽しくて仕事をしているのだろうか」ということになり、結局、日本人が何のために人生を送っているのかがわからなくなる。
こうして、外国人にとっては日本人が実に得体の知れない存在と見えてくることになるのだ。
物事の見方についても同じようなことが言える。私が通訳で出席するさまざまなビジネスの会合にも、いつもこの「あいまいさ」が登場する。
ある問題について、ある人がとうとうと自分の見解を述べたてる。論理的に緻《ち》密《みつ》な分析を披露しながら、問題点を煮詰め、結論へと話をもってゆく。ところが、そのように話を進めながら、「しかし、一概にそうとも言えません」「あくまでこれは論理であって、感じ方は個々あろうと思います」など、わざわざ自分の立論を崩すような話をあちこちに挟むのである。そして、最後に「これは私一個人の見方で……皆様のご批判を仰ぎたい」と断るのである。
だいたいがこのようなパターンで話が進められる。どうみても、自分が正しいと思う考えを一貫させて他人を説得しようという話しぶりではないのだ。議論の常道から言えば、相手に弱点を自らさらけ出すようなもの。自分の意見というよりは、まるで他人の意見を紹介するような感じである。
集団のシステムもあいまいである。たとえば、私がある日本の代表的な企業グループの支社長クラスの人に聞いた話である。特定の取引については、しかるべき手続きをとることが、グループのトップの会議で決定されて本社から各社に通達される。ところが、取引の現場では、いちいちそのようなことをしていたらビジネスがスムースに運ばないことも少なくない。そこで、決まりは決まりだけれども、わざわざ本社との間で所定の手続きを踏まないケースがたくさんあるし、また本社もそれに対して文句を言うこともなく、黙認しているのだと言う。
こういうやり方は韓国の企業では考えられない。それは欧米の企業にしても同じことであるに違いない。多少の犠牲を覚悟のうえで最大公約数を求め、それを基準にメンバーが一致して行動することは、民主主義の基本でもある。ところが、トップの指令といえども、ケースバイケースのあいまいな含みのなかで、流動的に解釈されるのが日本なのだ。
個人にしても集団にしても、どこに主体があるのかわからない日本。が、その日本が、世界の奇《き》蹟《せき》と言われる経済成長を達成し、なおかつ世界で最も貧富の差の小さい豊かな社会を実現させている。批判を行なうべき点が多々あるにせよ、まずはこうした事実をきちんと評価することを、韓国人も日本人自身も課題とすべきであるように思う。
そのころ、私は日本人特有の「あいまいさ」をどう理解したらいいかがわからなくて深刻に悩んでいた。他の外国人たちはどう考えているのだろうかと、盛んに彼らの話を聞いて回ったのである。そして聞く先々で、彼らが私以上に理解していないことを知らされ、愕《がく》然《ぜん》とするとともに、余計に落ちこんでしまったことを覚えている。
深いところでは、韓国人は日本人以上に、多くの外国人たちに理解されていないと言えるのだが、表面的にはきわめて欧米人と韓国人は互いの理解がしやすいのである。まず第一に、欧米人も韓国人も言いたいことをはっきりと言う。これで、ともかくも、相手が何を考えているかを知ることができ、一応コミュニケーションが成立する。
ところが日本人はそうはいかない。たとえば自宅を訪ねて来た日本人に、「コーヒーにしますか? それともお茶にしますか?」と聞くと、「どちらでもけっこうです」と言う人が多い。これがわからない。何か食事をとろうと、「何がいいですか?」と聞くと、「なんでもいいです」と言う人が多い。仕方がないので、「お寿《す》司《し》にしますか? 丼《どんぶり》ものにしますか?」と聞くと、またまた「どちらでもけっこうです」となる。これであっけにとられる外国人が多いのだ。
先にも述べたように、学生と話してみても、彼らにはよりよい成績を取りたいという欲望が感じられない、ビジネスマンと話してみても、出世してトップを目指そうとする夢もないようだ、歳《とし》をとったら仕事をやめて、楽をしてのんびりと暮らして生きたいという気持ちもないようだ、いくら話をしても、はっきりとした自分の主張が出てこない、いったい彼らは何を考えているのか、ということになってしまう。
ようするに、ただただ毎日学校に通い、また職場の仕事をこなし、死ぬまで仕事を続けること、それ自体に喜びを感じているとしか思えないような反応が、多くの日本の男たちから返ってくるのだ。そこで、「何が楽しくて仕事をしているのだろうか」ということになり、結局、日本人が何のために人生を送っているのかがわからなくなる。
こうして、外国人にとっては日本人が実に得体の知れない存在と見えてくることになるのだ。
物事の見方についても同じようなことが言える。私が通訳で出席するさまざまなビジネスの会合にも、いつもこの「あいまいさ」が登場する。
ある問題について、ある人がとうとうと自分の見解を述べたてる。論理的に緻《ち》密《みつ》な分析を披露しながら、問題点を煮詰め、結論へと話をもってゆく。ところが、そのように話を進めながら、「しかし、一概にそうとも言えません」「あくまでこれは論理であって、感じ方は個々あろうと思います」など、わざわざ自分の立論を崩すような話をあちこちに挟むのである。そして、最後に「これは私一個人の見方で……皆様のご批判を仰ぎたい」と断るのである。
だいたいがこのようなパターンで話が進められる。どうみても、自分が正しいと思う考えを一貫させて他人を説得しようという話しぶりではないのだ。議論の常道から言えば、相手に弱点を自らさらけ出すようなもの。自分の意見というよりは、まるで他人の意見を紹介するような感じである。
集団のシステムもあいまいである。たとえば、私がある日本の代表的な企業グループの支社長クラスの人に聞いた話である。特定の取引については、しかるべき手続きをとることが、グループのトップの会議で決定されて本社から各社に通達される。ところが、取引の現場では、いちいちそのようなことをしていたらビジネスがスムースに運ばないことも少なくない。そこで、決まりは決まりだけれども、わざわざ本社との間で所定の手続きを踏まないケースがたくさんあるし、また本社もそれに対して文句を言うこともなく、黙認しているのだと言う。
こういうやり方は韓国の企業では考えられない。それは欧米の企業にしても同じことであるに違いない。多少の犠牲を覚悟のうえで最大公約数を求め、それを基準にメンバーが一致して行動することは、民主主義の基本でもある。ところが、トップの指令といえども、ケースバイケースのあいまいな含みのなかで、流動的に解釈されるのが日本なのだ。
個人にしても集団にしても、どこに主体があるのかわからない日本。が、その日本が、世界の奇《き》蹟《せき》と言われる経済成長を達成し、なおかつ世界で最も貧富の差の小さい豊かな社会を実現させている。批判を行なうべき点が多々あるにせよ、まずはこうした事実をきちんと評価することを、韓国人も日本人自身も課題とすべきであるように思う。