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スカートの風76

时间: 2020-07-26    进入日语论坛
核心提示:一人一人に力がないことを教える日本の学校 もう少し韓日の学校の授業の違いについてお話ししてみたい。たとえば、韓国の学校で
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一人一人に力がないことを教える日本の学校

 もう少し韓日の学校の授業の違いについてお話ししてみたい。
たとえば、韓国の学校で英語の単語を一〇コ書く試験があったとすると、これはだれが一〇コの単語を完《かん》璧《ぺき》に覚えることができるかの競争以外のものではない。この、他人をしのごうとする意志が勉強への意志そのものとなるように、授業のシステムがつくられている。そして、一〇コできた人は八コしかできなかった人より立派で、八コできた人は五コしかできなかった人より立派だという評価がはっきりと行なわれる。韓国ではこの場合、より多くできた人はそれ以下しかできなかった人には何も学ぶことはないと無視してよい、あるいは無視をしなくてはならないと言ってもよいほど、知識の上下関係が決定的に価値づけられる。こうして一番、二番、三番……という成績の順列が明示され、それが学生の価値の順列であることがはっきりと打ち出される。
日本の大学では、他人の成績を知ることすらない環境で、ともかくも単位さえ取ればよいという気分からか、学生一般がしごくのんびりとしているように見える。授業の進め方も韓国とはおよそ異なっている。たとえば、英語の単語一〇コの語源を探しなさいという問題が出されたときのことである。
教授は、一〇コもの語源調べは一人ではかなり難しいから、四、五名がグループになって、一人が二つずつの単語を分担するようにと言う。私も近い仲間と誘い合って五人のグループをつくり、私は私の分担である二つの単語の語源を調べるため、図書館へ行ったり文献を探して書店を歩いたりした。こうして二つの語源を探しあてた一人一人が集まって突き合わせ、全員が一〇コの単語の語源を知ることになる。
こうした授業を受けて私は、「なるほど」と感じることがあった。日本人の集団意識がどう形成されるかの一端をのぞいたように思えたのである。まず、自分がさぼると他人に迷惑がかかる。また力のある友だちがいないと自分も生きてこない。一人一人の不充分な知識を寄せてみると、短い時間で突破口が見えてくる。安心して、自分の分担だけを深く突っ込んで調べることができる——。
聞いてみると、こうした教え方は小学校のときから行なわれている。それだけの素地があれば、確かに社会に出て仕事に就いても、自分に与えられた分野だけを深く突っ込むことに専念できるだろう。私が話を聞いた多くの日本人ビジネスマンたちが、仕事を面白いと言い、仕事を遊びのように感じていることも、こうした背景を考えれば充分に納得がゆく。
欧米の人たちはしばしば、「日本人は仕事と遊びの区別がついていない、お酒を飲むのもゴルフをするのも、ほとんどがビジネスがらみだ、仕事を忘れて純粋に遊ぶことができない人たちだね」と笑う。欧米人にとっても韓国人にとっても、仕事はひとつの苦痛であり、遊びは快楽である。ところが、日本人にとって仕事は苦痛ではない。逆に、遊ぶことしかなくて仕事ができないことの方が苦痛なのだ。確かに日本の男にとって、いや最近の日本のキャリア・ウーマンにとっても仕事は恋人なのである。
日本のビジネスマンはだれが見ても仕事熱心だが、大学生はあまり勉強熱心ではないように見える。韓国の学生は実によく勉強するけれども、日本の学生はいつ勉強しているのかわからない。遊んでばかりいるように見えるのだ。
しかも日本人は、一生懸命に勉強する者を「ガリ勉」と軽《けい》蔑《べつ》的な言葉で表現する。韓国人が「ガリ勉」という言葉のニュアンスを理解するのは難しい。韓国では「ガリ勉」は模範とすべき勤勉以外の何ものでもないからだ。
しかし、日本の学生がみんな勉強をしないわけではない。現実にはかなりのガリ勉がいるのに、だれもが決して自分をガリ勉のようには見せないのだ。私の体験から言うと、これは人づき合いのなかでの心理的な負担をずいぶんと軽くしてくれる。韓国ではだれもが反対にガリ勉のように振る舞うから、常に人間関係から圧迫を受けることになる。また本人の方も、突っ張り続けなくてはならないから心理的な負担が大きいのである。
このへんにも、自分一人の力の弱さをアピールし、他者との協調をつくっていこうとする日本人の行動様式を見ることができる。これを「もたれあい」と批判する人が多いけれども、前にも述べたように、現実には韓国人の方が同族的・同郷的な「もたれあい」が顕著なのである。
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