もうひとつ、韓国の教育との比較で言えば、日本では物事を反省させる教育が盛んに行なわれていると思う。「何かと言えばすぐ反省させる」とあまり評判がよくないようだが、反省的な思考は日本人の大きな利点であるように思われる。
生活面での行為に対する反省だけではなく、授業でも試験でも、ある結果に対して「なぜこうなったのか?」を考えさせる設問が出されることが多い。この点も韓国とは大きく違っている。
韓国では、ある努力の結果、目的が半分しか達成できなかったような場合、半分でも達成できたことがいかに評価に値するかを教える。しかし日本では多くの場合、「なぜ半分しか達成できなかったのか?」と設問が投げかけられ、反省的な思考が要請されるのである。
このような教育の違いは当然ながら現実の社会に大きく反映している。日本でならば、他人のアイデアに対して、「ここが足りない」と指摘すると感謝されることが多いが、韓国人だと気分をこわし怒ってしまうのが普通だ。自分の弱点を反省するよりも、弱いと指摘されることへの耐えがたさが先にたつのである。
日本人の友だちの家に遊びに行ったときの話である。紹介されたご主人は有名な家電販売会社にお勤めだとのこと。ちょうどそのとき、その会社のある商品が爆発的に売れていたので、私は「ずいぶん業績を上げていらっしゃるのでしょうね」と、まあ日本的な挨《あい》拶《さつ》のつもりで言葉をかけた。すると彼は、「確かに売れています。でも、まだまだ営業部門が弱くて、もっとお客さんのサービスに力を入れないと、すぐに抜かれてしまいますよ」と笑いながら言う。特にどうということもない会話だが、韓国人の男には「女の私に」こんな言い方をする人はまずいない。
日本的なお世辞と謙《けん》遜《そん》の交流には違いないが、謙遜が単なる自己卑下ではなく、自然な反省として伝わってくることがほとんどである。
太平洋戦争の話をすれば、日本人からは反省の言葉がまず口をついて出る。韓国人はそれを聞きながら、当然とばかりにうなずくのだが、自らの側の反省をいっこうにしようとはしない。すべてが日本の責任であり、自分たちは被害者だというお決まりのパターンなのだ。なぜ自分たちは植民地支配を許してしまったのか、許してしまった自分たちの側の弱点は何だったのかと反省する姿勢は、教科書にもまったく見ることができない。
日本人は南北分断を自らの責任であるかのように言い、歴史的な過ちを深く反省する姿勢を隠さない。それでもなお、日本国内には「反省が足りない」の声の絶えることがない。しかし、いかに米ソの軍事制圧下にあったとは言え、私たちが銃をとって同じ民族どうしで殺し合いをしたことは隠すことのできない事実である。なぜひとつになって「非戦」の姿勢をとることができなかったのか——この反省ももちろん行なわれた例《ためし》がない。
インドやインドネシアの独立が、西欧列強のアジア支配に対する日本のアジア進出を契機にもたらされたことは、まぎれもない世界史的な事実であるのに、日本人は決して日本が独立に貢献したと語ろうとはしない。太平洋戦争はすべて日本が悪かった——日本人はこの姿勢をずっと取り続けようとしている。なんとお人よしの民族かと思わずにはいられないが、こうした反省的な思考が、結局はいま、日本に勝利を収めさせていることに、韓国人は気づかなくてはならないだろう。
生活面での行為に対する反省だけではなく、授業でも試験でも、ある結果に対して「なぜこうなったのか?」を考えさせる設問が出されることが多い。この点も韓国とは大きく違っている。
韓国では、ある努力の結果、目的が半分しか達成できなかったような場合、半分でも達成できたことがいかに評価に値するかを教える。しかし日本では多くの場合、「なぜ半分しか達成できなかったのか?」と設問が投げかけられ、反省的な思考が要請されるのである。
このような教育の違いは当然ながら現実の社会に大きく反映している。日本でならば、他人のアイデアに対して、「ここが足りない」と指摘すると感謝されることが多いが、韓国人だと気分をこわし怒ってしまうのが普通だ。自分の弱点を反省するよりも、弱いと指摘されることへの耐えがたさが先にたつのである。
日本人の友だちの家に遊びに行ったときの話である。紹介されたご主人は有名な家電販売会社にお勤めだとのこと。ちょうどそのとき、その会社のある商品が爆発的に売れていたので、私は「ずいぶん業績を上げていらっしゃるのでしょうね」と、まあ日本的な挨《あい》拶《さつ》のつもりで言葉をかけた。すると彼は、「確かに売れています。でも、まだまだ営業部門が弱くて、もっとお客さんのサービスに力を入れないと、すぐに抜かれてしまいますよ」と笑いながら言う。特にどうということもない会話だが、韓国人の男には「女の私に」こんな言い方をする人はまずいない。
日本的なお世辞と謙《けん》遜《そん》の交流には違いないが、謙遜が単なる自己卑下ではなく、自然な反省として伝わってくることがほとんどである。
太平洋戦争の話をすれば、日本人からは反省の言葉がまず口をついて出る。韓国人はそれを聞きながら、当然とばかりにうなずくのだが、自らの側の反省をいっこうにしようとはしない。すべてが日本の責任であり、自分たちは被害者だというお決まりのパターンなのだ。なぜ自分たちは植民地支配を許してしまったのか、許してしまった自分たちの側の弱点は何だったのかと反省する姿勢は、教科書にもまったく見ることができない。
日本人は南北分断を自らの責任であるかのように言い、歴史的な過ちを深く反省する姿勢を隠さない。それでもなお、日本国内には「反省が足りない」の声の絶えることがない。しかし、いかに米ソの軍事制圧下にあったとは言え、私たちが銃をとって同じ民族どうしで殺し合いをしたことは隠すことのできない事実である。なぜひとつになって「非戦」の姿勢をとることができなかったのか——この反省ももちろん行なわれた例《ためし》がない。
インドやインドネシアの独立が、西欧列強のアジア支配に対する日本のアジア進出を契機にもたらされたことは、まぎれもない世界史的な事実であるのに、日本人は決して日本が独立に貢献したと語ろうとはしない。太平洋戦争はすべて日本が悪かった——日本人はこの姿勢をずっと取り続けようとしている。なんとお人よしの民族かと思わずにはいられないが、こうした反省的な思考が、結局はいま、日本に勝利を収めさせていることに、韓国人は気づかなくてはならないだろう。