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スカートの風79

时间: 2020-07-26    进入日语论坛
核心提示:日本語は受け身の言語である 日本人の特徴は、なんといっても言葉遣いにあると思う。そこで、少し日本語についてお話ししてみた
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日本語は受け身の言語である

 日本人の特徴は、なんといっても言葉遣いにあると思う。そこで、少し日本語についてお話ししてみたい。
あるとき、自分の考えはあまり日本人的ではないと強調する日本人と話していて、失礼ながら思わず吹き出してしまったことがある。言葉遣いがあまりにも日本人的で、そこに当人の意識とは無関係に、日本人的な性格が隠しようもなく表れていたからである。それは、受け身形を用いる日本人独得の言葉遣いである。
たとえば、「どろぼうに入られた」という遣い方。受け身形はもちろん英語などにもあるが、英語でも会話ではまず使用されることのない用法だ。そもそも韓国語には受け身の発想がないから、このへんが日本語の勉強ではとくに難しい。韓国では「どろぼうが私の家に入った」と、どろぼうが主語になるのである。
〜に言われた、〜に逃げられた、〜に褒《ほ》められた、などの「〜された」という発想すら理解するのが難しいのだから、〜に取り残された、〜飲まされた、〜買わされた、などの「〜させられた」という使役の受け身形となると、もはや、なんのことやらさっぱりわからなくなる。しかも、これがわからなくては日本語がほとんどわからないと同じことになるから、これらの用法を理解することが、日本語を理解する上では大きなポイントとなる。
私もはじめのうちは、「どろぼう」を主語にすればよいものを、なぜわざわざ受け身にしなくてはならないのか、どんな必要があるのかと考えて壁にぶつかっていた。そしてあるとき、「受け身形にすれば常に主語が『私』になる」ということの意味に気がついた。「どろぼうに入られた」は「私はどろぼうに入られた」なのだ。主語を省略した言い方であることは当然わかっていた。しかし、主語を書き加えてみることで、私はようやく、「どろぼうが悪い」ということよりも、「責任が私にある」ことを問題にしようとする発想がそこに潜んでいることを知ったのである。
韓国語の用法からすれば、主語は「どろぼう」だから、何よりもまず「どろぼうが悪い」ことを問題にしようとする発想であることがわかる。つまり、加害の側の責任を問うているのである。これは単に言語表現の形式上の違いだけではなく、人々の無意識を規制する発想の違いとみなくてはならない。
たとえば、車の接触事故を起こした場合、韓国人はどちらが悪かったかと考えるより先に、まずは悪いのは相手で自分は被害者だという意識を持ってしまう。そうして、あくまで自己正当化に執《しつ》拗《よう》な力を注ぐのである。最近は日本人でもそうだと言われるが、それは損害賠償責任の問題があるからで、真意は別にあるとみた方がよい。
一方、使役の受け身形の場合は、「残業をさせられた」「煮湯を飲まされた」「高い物を買わされた」というような目にあった自分が情けないわけであって、だから「気分が悪い」というニュアンスをそこに受け取らないと、まるで理解が不可能になってしまう。
通常の受け身形になり得るのは、せいぜい「叱《しか》られた」を「叱りを受けた」、「頼まれた」を「頼みを受けた」、「言われた」を「言葉を聞いた」などで、いくつかは名詞化して使うことができる。しかし、「逃げられた」を「逃げを受けた」とは使えないし、「見られた」「聞かれた」も名詞化のしようがない。なぜそうなのかが理屈の問題ではないだけに、外国人には覚えるのが難しいのである。
こうした用法で最も理解し難いのが「あなたに死なれるとこまる」という言い方である。この言い方では、もし日本語の用法を知らなければ、「あなたが私を殺すとこまる」という意味にとられてしまうのだ。この用法で私もたびたび驚かされたものである。
知り合いの韓国人にこの話をしたとき、なぜ「あなたが死ぬと私がこまる」と率直に言わないで、ぐるりと反対に回したような言い方をするのか、その気持ちがわからない、日本人は二重人格なのではないか、と言われたことがある。
日本人に聞いてみても、ほとんどの人が「そう言えばそうねえ、なぜそんな言い方するのかしら?」と、おおむね自覚されていない。これは「どろぼうに入られた」でも「女房に逃げられた」でも同じこと、やはりそこには「その現象を生んだ責任、あるいは生むかもしれない責任は自分にある」ことを示そうとする気持ちが語られているのである。
したがって、「あなたに死なれるとこまる」を正確に言えば、「あなたは私にとって必要な人だから、あなたが死ぬような目にあわないようにする責任が私にはある、だから危ないことはしないで欲しい」となるように思う。そう解釈しなければ、なぜ「こまる」のかがまるでわからなくなってしまう。他の解釈の仕方もあるようだが、私はこう考えるのがよいと思う。
およそ日本語は、短い言葉のなかでたくさんの内容が語られる言語である。また、話す相手によって、話される場によって、同じ言葉でもそこに盛られる意味が違ってくる言語である。そのために、話されるわずかな言葉のなかに、相手の言わんとする内容を聞く側で探さなくてはならない言語である。
日本人がこうした言語の発想を背景に持っているため、まともに渡り合おうとすればするほど、外国人は疲れることになる。日本語と同じ内容を伝えるのに、韓国人ならば倍の言葉を必要とする。そのため日本人からは逆に、「韓国人は話が多くてとても疲れる」と言われることになるのである。
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