それから数年たったころに、私はようやく十条での体験のほんとうの意味に気がついた。思い返してみれば、十条の美容室で私は、「きれいにして下さいね」という言葉を連発していた。また八百屋さんでは「いい野菜を下さいよ」という言葉を連発していた。韓国ではそれが親しさを表わす挨拶の表現なのだが、日本では「当然のことをなんでいちいち指図をするのか」というふうに受け取られ、専門性を信頼していないという嫌な印象を与えることになってしまう。
韓国では手先を使う技能者や商人は一段低い者と見なされているから、まずこちらから声をかけること自体が相手を尊重していることの現われとなる。韓国でお高い人は、決して技能者や商人にこちらから声をかけようとはしないものだ。そして、「きれいにして下さいね」と言えば、こちらから相手の仕事を積極的に応援する気持ちを伝えることになる。したがって、相手の存在を尊重し、相手の技術を信頼しているからこその言葉となるのである。
しかし、十条の美容師さんは、そういう私の言葉に深く傷つけられていたのである。「きれいにして下さいね」だって? なんて失礼な言い方なの、髪をいじるたびにああ厭《いや》味《み》を言われたんじゃ、もう頭にきちゃうわね——。そんなふうに裏で言っていて、ついに堪忍袋の緒が切れて、「もう来ないで……」となってしまったのだろう。
八百屋さんで「いい野菜を下さいね」という私に、店のご主人はどんなに嫌な気分を味わわされたことだろうか。うちは新鮮な野菜をとくに選んで置いているのに、なんていう言いぐさなんだ、失礼なやつだ——そう思われたに違いない。
こうした体験を、私は長い間、韓国・朝鮮人差別だと感じていた。それは大きな誤りであった。以来、私は差別ということを、すぐに社会的・政治的な文脈に結びつけて考えてしまうことの間違いを知った。
同時に、心がいき違うことがどれほど悲しいことなのかも知った。私の脳裏には、たくさんの同じような体験が次から次へと浮かび上がってきた。そして、何とも言いようのない辛《つら》い気持ちに塞《ふさ》いでゆく心をどうすることもできなかった。
ある日、友だちと二人で車に乗り、ガソリンスタンドで給油をしていた。私は窓を拭くスタンドマンに、「ここも拭いてね、こっちもよ、それからここもお願いね」と親しげに声をかけていた。一緒に車に乗っていた日本人の友だちが、「ちょっと、そういう言い方はやめてよ」と、実に嫌な顔を私にしてみせたときのこと……。またある日、部屋の家具の入れ替えをしていた。重い家具を持ち上げてソロソロと狭い部屋を移動する家具店の店員に、「あっ、そこ気をつけてね、そっちもよ、傷をつけないようにね」と、快活に声をかけている私に、手伝いに来てくれた日本人が「いちいちうるさいなあ、彼らはプロなんだから任せておけばいいんだよ」と、怒ったように言ったときのこと……。
彼らを怒らせたのは、私の「偉そうに人に指図をする態度」への感覚的な嫌悪感であった。いき違いは話せばわかると言われる。しかし、感覚的な嫌悪感が先立つとき、その質を疑問視し、冷静に見つめて客観化して見ようとすることは、誰にとっても至難のわざであるに違いない。