たくさんの日本人とつき合ってみて感じることは、とても「受け入れ上手」だということ。多くの人たちが、出す力に比べると、受ける力がいっそう強いように感じる。外から流れてくる物事を受け入れ、それを整理して習慣化することには、どんな国の人びとよりも長《た》けているように思う。簡単に結びつけることはできないだろうけれども、それはやはり、自然な立地をきっかけとして歴史的に形成されてきた民族的な性格に由来するものに違いない。
およそ受け入れ上手な人とは、物事を直接にそのまま受け入れるのではなく、間に何らかのクッションを入れて、その直接的な生《なま》々《なま》しさに少々の距離を取ってから受け入れているものだ。そうして考えてみると、日本人の多くが、この距離の取り方にとても巧みなように思える。
はっきり言って、韓国人は受け入れが下手である。受け入れようと動くことには積極的だし、多くの場合日本人よりも素早いが、こなし方が下手なのである。それは、外から流れてくるものに対する距離感が、きわめて直接的なものだからではないだろうか。
私はこの受け入れに関する距離感の違いは、どうも、自然に対する距離感の違いに関連するものではないかと思っている。この章では、そのへんを巡る日本人と韓国人を論じてみることで、韓日の悲しくも、また、ときに楽しくもある「すれ違い」について考えてみたい。