たとえば庭。韓国の庭は自然の景観をそのままデンと置いたようなもの。中国の庭でもそうだが、手入れらしい手入れをすることがないし、人工的に山や池や川をつくることもあまりしない。見通しのよい空間が広がり、その周囲に木々が連立するといった風《ふ》情《ぜい》が一般的である。
私の姉の子どもたち(小6と小4の男の子)が夏休みを利用して日本に遊びに来たときのこと。ちょうど、東京の椿《ちん》山《ざん》荘《そう》で私たちの親《しん》戚《せき》(在日韓国人)の結婚式があり、子どもたちと同行した。私が「結婚式場にはね、とてもきれいな日本の庭があるのよ」と宣伝しておいたため、彼らは彼らなりに、どんなすてきな庭なんだろうと、さまざまにイメージを描いていたようだった。
そして椿山荘に入って庭を散《さん》策《さく》する中で示した子どもたちの驚きよう、はしゃぎようといったら、それは大変なものだった。
「あれ、お池があるよー」
「あ、滝だ、すごーい」
「どうして、こんなところに川があるの……」
「あそこ、お山みたいになってるよ」
「あれー、お寺(実は神社のお堂)もあるんだね」
子どもたちが描いていたイメージは、高い木々が立ち並び、広く開いた空間を抱える大型の庭園だった。そこで思う存分かけ回ることを楽しみにしていたという。ところが、それこそ箱庭のように、ひと目で見わたせる小さな空間に、山や川や滝が所狭しと形づくられた光景を見て、「これがお庭なの?」と一瞬いぶかしげな目で見やったものの、すぐに、まるでゲームを楽しむような感じで、あちこちへの探検が始まっていた。
日本の庭は全体に低くしつらえてあって、人間の目の位置で一挙にとらえられるように出来ている。韓国の庭はその点、木々の背も高く、ひとつひとつの造《ぞう》作《さく》が大きい。『縮み指向の日本人』(李《イ・》御《オ》寧《リヨン》著・講談社)に、日本人が韓国の一流の庭に案内されて、その庭のなかを歩きながら、案内の韓国人に「庭はどこですか?」と聞いたという逸《いつ》話《わ》が載っている。
日本の庭は、本来人間には不可能な、自然全体を眺めることの出来る目(神の目と言っていいかもしれない)を、日常的な目に移し代えようとしたもののように感じられる。
一方、韓国の庭は、眺めるというよりは内部を散策する庭である。その散策は、威風堂々とした自然システムの主人公である自分を確認する自然の王さまの巡回のようだ。
そんな比較ができるとするならば、庭は、両者の自然に対する距離感を上手に物語ってくれているように思う。
自然と人間は、韓国の庭では、同じひとつのシステムのなかで差別的であり、日本の庭では、自然からいったん離れた人間がもう一度自然に向き合うことで差別的である。その意味で、前者はより直接的であり、後者はより間接的である。
古くは韓国にも日本と同じような形式の庭があったとも言われる。しかし、現在はその面《おも》影《かげ》すら感じさせるものはない。いずれにせよ、韓国にその形式が根づくことはなかったのである。現在の日本式の庭は、それが中国や韓半島からの文化の流れにかかわるものであったとしても、明らかに日本でこそ花開くことのできた文化である。