私が東北に旅行に行ったときのこと。山間の村に続く、曲がりくねった狭い一本道を一人歩いていると、道《みち》端《ばた》にしゃがみこんだ老婆が、子どもに話しかけるようにして、「きれいね、しっかりがんばってね」と、語りかける言葉が耳に入った。そのすぐかたわらを歩いていた私は思わず立ち止まり、誰か他にいるのかと老婆を見やった。そこには老婆以外に誰がいるでもなかった。老婆は、紫色の可《か》愛《わい》い一輪の花をそっとなでていたのである。
これは一人の老婆の見せてくれたひとつの姿に過ぎないが、私はそこに日本人の心に特有な一面を、しっかりと見ることが出来たように思う。
もちろん、無意識に通りすぎてしまう日本人も多い。が、その老婆のことを帰ってからいろいろな日本人に話してみて、誰もが何ら珍しいことではないという反応を見せたことからも、きわめて日本的な心《しん》象《しよう》 風景のひとこまであることはすぐにわかった。
この老婆の見せた姿に物珍しさを覚えたのは、欧米人ならぬ同じ東洋人である私である。韓国人ならば、「きれいねー」と感嘆して立ち止まることはあっても、花に話しかけたりするなどあり得ないことだ。
ここでは、老婆の自然に対する距離感は、いとおしい存在に対する距離感と同じなのだ。これをさらに広げて考えてみれば、そこにあるのは、極力対立を避けて、できるだけ相手との親和なつながりを見出そうとする、日本人に特有な、あの、他者へのアプローチのあり方と、同じものだとは言えないだろうか。